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わたしが恐れていること

わたしは自分にちょっとスパルタかもしれないです。

HSS型HSPを表現するときに、『アクセルとブレーキを常に同時に踏んでる状態』と言っているのは、的確だなあと思います。

わたしは基本的に自分がHSPであるとか、繊細だとか、人に話さないです。
そういう話題になって、話を振られれば話すし、別に隠しているわけでもないけれど。

背が高い人や食べ物のアレルギーがある人が急にそのことを話し出すことってあんまりないと思うのだけど、そういう感じです。

ただ、わたしはHSPであるということを自分から話すことによって起こりえるんじゃないかと、常に恐れていることがあります。

今でこそ少しずつHSPとか『繊細さん』とか、社会全体に浸透してきていると感じます。
けれどどんなにそれが広がっていこうと、結局その人がHSPなのか、非HSPなのか、HSPだと思いこんでいるだけの非HSPなのか、HSPなんて知らずに生きづらさを感じている実はHSPなのか、それって他人からはわからないものです。
簡単な診断テストみたいなものもよく見られるようになったけど、その設問のとらえ方も人それぞれだし、確実に科学的に『わたしはHSPです』と証明できる術って、そんなに簡単じゃないと思うんです。

『わたしはHSPで、とっても敏感で繊細なんです』と説明して、受け入れてもらえないというつらさ、すでに経験している人はたくさんいると思います。それもこわいです。自分の個性を受け入れてもらえないことは、とっても寂しくてつらいです。

でもそれ以上にわたしが恐れていることは、HSPではない人が『わたしはHSPだから』と言えばなんでも許されると、それを甘えや逃げの理由にして良いように利用するようなことが起こるのではないかと思っていることです。
それは意図せずに起こってしまうかもしれないし、いや本当に「便利な言葉だ」、と考えるずるい人も出てくるのはあり得ることだと思います。
(そんなこと考えながら、そんな人がいない世界を願っていますが)

だからわたしはそんな起こって欲しくないことを回避するために、あえて必要以上にHSPという言葉を普段は口にしないようにしています。

そもそもわたしは思うのですが、もし本当に(HSPである)わたしが自分のその気質にあっていてその特性を生かした生き方をしていれば、『わたしはHSPだから・・・』と非HSPの人にわざわざ説明をしなければいけない状況には出会わない、もしくはほとんど必要ないのではないかと思うんです。
その生き方のどこかに「HSPであるがゆえに」しんどいことがあるのであれば、それはわたしにとってまだまだ改善の余地ありです。
もっともっと自分と対話をして自分を知って、自分にとってより良いやり方を考えます。

もっと人を頼っても良いと思います。周りを信じることはとっても大切なことです。
でもわたしはHSPとして生まれた自分の人生を誇りを持って生きたいと強く思います。HSPとして生まれたからこそ、そのすべてを自分の大好きな個性にして生きていきたいです。
だからわたしは自分の生き方を責任を持ってとことん追求していきたいと思います。
『こんなことができるのはわたしがHSPだから』と自分を愛でつつ、それを言葉にしなくてもそのおかげで社会や自分の周りの人や大切な人に貢献できる生き方をこれからも目指して生きていこうと思います。


あくまでもこれはわたしの中で腑に落ちていることにすぎないです。
みんなこうすべき、というつもりはないです。
でも、みんな自分の人生の中心は自分です。わからなくなったら、自分の心に帰ってきて欲しいと思います。生きづらさを感じている状態はあるべき姿ではないはずです。

長くなってしまいましたが、最後まで読んでくださってありがとうございます :)



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