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カレリア語で書かれた白樺文書(Грамота №292) - 最古のバルト・フィン諸語テキスト


白樺文書(Новгородская берестяная грамота ,11-15世紀,古代ロシア語/古ルーシ語)は、ロシア古代都市の考古学的発掘のときに発見された白樺の樹皮に書かれた文書類です。
1951年にはじめてノヴゴロドで発掘されました。1957年には、カレリア語の3行の呪文がキリル文字で書かれた文書が見つかっています。13世紀初期のものと考えられており、バルト・フィン諸語の現存するテキストとして最古のものとされています。現在はノヴゴロド州立博物館所蔵。

ノヴゴロド白樺文書の多くは個人的な書簡で、日常を描いたものがほとんど。女性や子どもが書いたものも多く、当時のノヴゴロド周域の民の、識字率の高さを物語っているとされています。
カレリア語は現在ラテン文字で表されていますが、キリル文字を使用して書かれていることも注目すべき点。カレリア語を耳にしたノヴゴロドの民が書いた可能性が高い…と言えるでしょうか。

白樺文書 番号292/Грамота №292

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※画像: 白樺文書データベースサイト(Рукописные памятники древней руси)より

テキスト転記

[キリル文字]
юмолануолиїнимижи
ноулисѣханолиомобоу
юмоласоудьнииохови

[ラテン文字]
jumolanuoliïnimiži
noulisehanoliomobou
jumolasoud'niiohovi

テキストの言語について

多くの研究者が、書かれているのは南カレリアで話されているオロネツ方言(livvinkarjala)だと推測していますが、バルト・フィン諸語の形成段階であったことから、確定は難しいとされています。

テキストの内容について

解釈は研究者によってさまざまですが、カレリアの口承伝統であるロイツ(loitsu)と呼ばれる呪い(まじない)であるという考え方が有力です。
また『カレワラ(Kaleala)』が代表するようなカレリアの伝統的な詩歌の形態で書かれたテキストであると考えられています。

テキストの解釈について

以下はWikipedia(フィン語)で紹介されていた諸説より。

諸説あるものの、冒頭は Jumala(n) nuoli(神の矢)という言葉で始まるという考えは一致しています。また、この jumala(神)、nuoli(矢)という語は繰り返し登場します(ただし、2行目冒頭はnouliと記載されている。これはnuoliの誤りではないかという解釈が一般的)。

Juri Jelisejev説

[カレリア語]
»jumolanuoli ï nimiži
nouli se han oli omo bou
jumola soud'ni iohovi»
[フィンランド語]
»Jumalannuoli, kymmenen [on] nimesi
Tämä nuoli on Jumalan oma
Tuomion-Jumala johtaa.»

[日本語訳 by Kieli]
神の矢, あなたの名は"10"
この矢は神自身のもの
審判の神が導くだろう

Martti Haavio説

[カレリア語]
»jumolan nuoli inimiži
nouli sekä n[u]oli omo bou
jumola soud'nii okovy»
[フィンランド語]
»Jumalan nuoli, ihmisen
nuoli sekä nuoli oma. [
Tuomion jumalan kahlittavaksi.]»

[日本語訳 by Kieli]
神の矢、人々の
矢 そしてその矢自身(我自身がその矢)
神の審判の鎖へと

Jevgeni Helimski説

[カレリア語]
»Jumalan nuoli 10 nimeži
Nuoli säihä nuoli ambu
Jumala suduni ohjavi (johavi?)»
[フィンランド語]
»Jumalan nuoli 10 nimesi
Nuoli säihkyvä nuoli ampuu
Suuto-Jumala (Syyttö-Jumala) ohjaa (johtaa?)»

[日本語訳 by Kieli]
神の矢 10あるあなたの名
矢が きらめく矢が放たれる
哀しみの神(審判の神)が導くだろう

つぶやき

この文書が書かれた13世紀は、フィンランド語にも書き言葉がありません。先日4/9は「フィンランド語 書き言葉の父」と呼ばれるミカエル・アグリコラ(Mikael Agricola;1510頃~1557)が亡くなった日であり、フィンランドではミカエル・アグリコラの日、ならびに「フィンランド語の日」としてお祝いされていますが、アグリコラがフィンランド語の表記法をまとめたのは1500年代のことです。

この当時は、1100年代からはじまる北方十字軍を発端に、スウェーデンによりフィンランド、ラップランド、カレリア、ルーシ(ノヴゴロド)へのキリスト教布教とあわせて政治支配が拡がっている時代で、カレリアは1290年代にスウェーデン傘下に入ったと言われています。すでに東方正教の傘下にあった民の一部は、東へ亡命しました。残った民は抑圧にも耐えつつ、信仰を守る者もいたようです。

こうした背景をみても、書き言葉をもたず、純朴に土地を耕してきた当時のフィンランド人に対し、(主にロシア・)カレリアは宗教をはじめ文化基準がある程度高かったように考えられます。

東方正教の傘下にあったとはいえ、カレリアの民は土着の信仰を捨てず、正教会の儀礼とうまく融合させながら自分たちの信仰を守ってきた様子が遺る資料からも読み取れるため、カトリックの波が入ってきても、確固たる意志で自分たちの伝統を守ってきたのでは・・と想像するのは、カレリアびいきの筆者の夢幻でしょうかね。

参照・参考

白樺文書データベースサイト
Рукописные памятники древней руси
http://gramoty.ru/birchbark/document/show/novgorod/292/

Wikipedia(フィン語版)
https://fi.wikipedia.org/wiki/Tuohikirje_292

松村一登先生のHP
http://www.kmatsum.info/uralic/finnic/karjala2.html

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