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自分に貼り付けたラベルが剥がれてきた

無理して話さなくていいよ!?と言われる人生

自分で言うのもなんだが、私の人生は、重いらしい。
皆が子供時代の無邪気なトークをしているところには、同じノリで混ざることができない。

自分の中では当たり前で、とうの昔に持ちネタという笑い話に昇華したトラブルを話すと、深刻な顔で「それ私が聞いて良いこと?そんなつらいこと、いま話さなくてもいいよ」と気遣われてしまうこともあった。
このリアクションをみて、「私の話は“普通”のひとにはそぐわないんだな」と納得し、普通の人ですよーという猫をかぶって生きてきた。

それでも極稀に、それこそ顔を見ただけで、「あなたそんなひとじゃないでしょ」と気付いてくれる人がいる。
そういう人たちに長く付き合っていただいて、“普通”も大概普通ではない、ということを理解して、おとなになった。

それでも自分の中には、ラベルのような経験の地層がある。
転校をしたこと、苗字が変わったこと、いくつものトラブル、それに伴うアイデンティティとはなにか?という問い…。

恐らく、世間の半分が持ち続けて死ぬアイデンティティの代替として、それらを貼っておかないと、白紙になるという恐怖がどこかにある。

では、それらを失ったわたしは虚無なのか?

無駄に手放したものは、きっと、なにもない。
手を離さないと前に進めなかった、そもそもが無理で、限界が来て崩壊してしまった、そういうことが圧倒的に多い。

少しずつ年月が経過して、関係もゆっくり変化してゆく。
人が亡くなり、距離が離れ、義理で結ばれていた縁がほどけていくと、それらは私を定義するものではなくなる。

私の地層を掘り起こす者がいなくなったときに、その傷のような過去を開く感覚が、“自分”にそぐわないと感じるようになった。
15年以上前の経験が、どこかの基盤を務めているのは確かだけれど、そこだけを照らして「これが私のアイデンティティです!」と開示するのは、なにか違う。

しかし、その地層を開示しないとなると、いまここにいる私だけで自己構築しないといけない気持ちになってしまう。
今の私にはなにもない、履歴書を持たずに面接に出向くような心地。

平和な暮らしをして十年

火の車から降りて、対岸の火事を眺め、とうとう火は消えた。
ギリギリの生活からなんとか、裕福とは言えなくても暮らしには困らないくらいに生活を構築し、色んなことを吟味する余裕もある。

きっと、なにもないだなんてことはない。
不幸や不運の経験で確立される存在感など、脅迫のようなものではないか?

人の不穏な話に張り合う必要などないはずなのに、強く反応してしまうのは、まだ聞いてほしいと叫ぶ自分がいるからだ。
でもこの飢えは、望む形では一生満たされないと知っている。
ただ私が次のステージに進み、「そんなこともあったな」と思える日まで、叫びたい衝動は消えないと、知っている。
沈黙している人は、そこにいないわけではない。知っているが、まだ理解できていない。

繰り返し見聞きしないことは忘れる

基本的に記憶力はよくないので、日記などに記録して見返さないと詳細は思い出せない事が多い。
自分の経験に関する話もきっとそうだ。

本当にこれを忘れて良いのか?という気持ちに酷く襲われている。他人に話すことが、開示することだけが忘れない手段でもないだろうに。
まるで断捨離中のような葛藤。つまり、いらないのだろう。

それを忘れても、そのラベルが知らない間に剥がれて落ちても、私が私であることは変わらないし、それで私を見つけられなくなるような人はそもそも存在していない。

いまの自分に見合った自分とは、どういう形なんだろう?
ありのままでいるというのは、どういう状態?
人生、まだまだ考えることがありそうだ。

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