シンデレラのごとく

解離性同一性障害だったとき、4人の交代人格と一緒に生きていた。1年間のトラウマケアを経て、人格の統合という治癒のひとつのカタチを迎えた。

「単に、私」になって、noteを始めたが、始めた頃に比べると、「単に、私」にかなり慣れた。

考えてみると、自己が統一された物珍しさや多幸感に包まれていたんだと思う。

「私たち」だったときは、「落ち込む」ときには特に、それぞれの交代人格がわあわあ同時に喋って頭の中がうるさかった。

「単に、私」では、頭の中が静かだ。静かだし、ゆっくりだ。

思考は、まるで違う意見が同時に飛び交うんじゃなしに、「ああでもない」「こうでもない」「ならこうか?」と、ゆっくりと行き来する。

そういう得難い今をありがたく思っていたが、ふいに「寂しい」と思っていることに気がついた。

「私たち」の騒がしさが、恋しい。

咳をしてもひとり、状態だ。

「おーい、だれかいる?ほんとに誰もいないの?」なんて頭の中で考えてみても、それはもう、頭の中で反響する、ほかの私、への呼びかけですらない。 「単に、私」の考えのひとつ、に過ぎない。noteを始めたころは、「呼びかける」ことができたのに、今はその方法すら思い出せなくなってしまったようだ。

自分には思いつきもしない言葉で、交代人格から突然話しかけられていた時代が、懐かしい。

いつまでも、どこまでも、365日24時間ずっと、私といっしょに居てくれた「私たち」。

どの人格も、私に寄り添っていてくれたんだなあ、と、改めて思う。

不謹慎かもしれないけれど、0時を過ぎたシンデレラみたいだ、と思う。

私の魔法は、解けてしまった。

「単に、私」は、本当に、自分だけの足で、だからこそ他者と信じ合い頼り合いながら、人生のさまざまな局面を歩いていかなければならないのだ、ということに、気がついてしまった。

もう、落ち込んだときでもどんなに大変なときでも、やらなきゃいけないこと全てを代わってくれる「スーパー◯◯」も居ないし、窮地に陥ったら激昂して自己主張する「キャシー」も居ない。周りに迷惑をかけてでも、自分を大切にしよう、と無邪気に提案してくれる「子供の自分」も、常に冷静で客観的で、「事態を説明して落ち着かせてくれる自分」も居ない。

居ない、というのは語弊か。みんな、「単に、私」に統合してくれた、「私たち」だから、その全部が「私」なんだけれど、なんとも、「そうか、君はもう居ないのか」状態だ。

もう、私が側で見ている間になにかをやってくれる存在としての交代人格は居ない。

私が、やるしかないのだ。

不安も心配も悲しみも怒りも惨めさも全部自分で引き受けて、ある種の孤独を受け入れて、誰を信頼し誰を信頼してはいけないかを見極めて、できることとできないことをはっきりさせ、礼儀正しく周りに伝えて、自分のペースで機嫌良く生きる、自分らしい方法を模索して練習して身につけていく。

「単に、私」のままで、「単に、あなた」と共に生きるって、そういうことなんだ、たぶん。

昨年秋だったか、子供の自分が提案してくれた「よく寝て、よく食べて、よく遊ぼう」は、今や私に残された、ガラスの靴となった。

一歩一歩、自分らしく、ゆっくり、味わっていこう。

【追記】

2020年1月に、解離性同一性障害と診断して下さり、専門家の治療を受けることを励ましてくださったのは、ネット上の著名な精神科医の先生だった。

その後も治療の経過を尋ねてくださり、1年間で(掲載時期にズレがあるので、掲載期間は1年4ヶ月の期間)4通のやりとりをさせてもらった。

最後に送ったメッセージは、今年の始め、noteを書き始めた頃に送ったものだ。全人格の統合の報告と心の安定の喜び、改めて感謝の気持ちを綴った。

どのメッセージも、書いているときは、心の奥底から湧き上がるものを泣きながら何度も何度も書き直し送ったものだ。

いま、読み返してみると、

①自分の状態が自己が分裂していることだと気がついてさえいない状態(フラッシュバックによる疲労困憊と錯乱、交代人格を奪われる恐怖)

②診断名への戸惑いと、言われたからにはカウンセリングに通ってみるしかないという諦めのような返信(体験の過小評価、過去の事実を見つめることへの回避)

③トラウマと解離に関する心理教育やカウンセリングのおかげで、罪悪感、羞恥心、孤立無援感から徐々に解放され、性被害や解離を自分ごとに受け止めて、フラッシュバックへの対処を模索し始める。自分自身を客観的にみつめる眼差しやある程度の落ち着き、周囲への信頼や絶え間ない支援を得て、それぞれの交代人格の境界線が自然に溶けていった報告。

④全人格が統合したことへの驚きと多幸感、周囲への深い感謝。

が流れとしてよく分かる。

最後の先生からの返信では、「解離性同一性障害の治療目標のひとつ(人格の統合が常に解離性同一性障害の治療目標であると限らない)である「人格の統合」の成功過程に関して、本人からの語りが公開可能になることは稀なことで、読者の方々にも貴重な情報になっていると思われる」と言われ、ほっとした。「終わったんだ」と感じ入るとともに、「もう戻れない」という寂しさや「未知の領域に足を踏み入れる覚悟」を感じている。

解離性同一性障害は、その症状も回復の過程も治癒のカタチも千差万別で、一人一人別のドラマがあるものだと思うので、私のケースが役に立てるかは分からないけれど。もし、その先生のサイトに興味のある方がおられれば、個別に対応したいと思っているので、コメントで一報もらえたら、と思います。


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