超絶誰得創作メモと眠ろうとした痕跡(ハリポタ風タイトル)


眠れないねえ
あ、大半が創作のメモなので重いこと書いてても、いい感じにお察しください


アップ

何もしない時間をつくる。人と仲良く話さなくていい。周りの迷惑を考えなくていい。ぞんざいでいい時間。人と楽しく話せる日もあるかもしれないが、まずは独りの時間をみんながいる空間の中につくる。見られていることを意識しちゃったらそれはまあ仕方ない。

アップで歌うのは楽しいから気軽にやれるし、自分の状態がいちばんよくわかるかもしれない。大小、高低、響かせる場所、探検すると思わぬ発見。日本語でやると恥ずかしいので周りに意味が伝わらないビートルズ以外の洋楽がちょうどよい。ただしゾロ目の歌は楽しいので良い

調子がいいなとなんとなく思う日でも探検をやめない。思わぬ落とし穴がやかたくなってるところがわかったりする。

余裕ができたら周りを感じて反応してよい。しかしいつでも戻る。ある程度遊んだら相手を見つけて、ミラーゲームや手押し相撲、エチュードなど仕掛けても良いかもしれない。重要なのは相手を受け続けていることと、受けたものを出してみること

出せるに安心してはいけない。出したものの裏がある。または出せるものだけ出して、出せないものを出したかのように満足するのも可能性を潰してしまっている点で勿体無い。

本番

実演時はその場と相手に身を任せる。
しかし想像しなおし続ける。
自分がやってても他の人を見てても最近思う演技のこ。いい演技ができている時、あるいは嘘を確かに信じられている時、やる前から嘘の全てをイメージできているわけじゃない。瞬間ごとに新たなイメージ、嘘が生まれ続けている感覚がある。あるいは生み続けられている。それも即興的に。
(理性も超高速で走って、感覚を制御しない場所で色々提案してくれてる。情報量が多い。情報量、あるいは可能性と言い換えるべきか?)

自分にとってのアレ、
役にとってのアレ
は違うものである。
アレの認識を役と自分ですっぱり分けられなくなるぐらいでやっと芸としてやれるなと思う。ただこれはこわい。つかれた人間やるのに日常までつかれたくないんだ。
このこと自体を忌避しすぎるのも演技のクオリティを下げかねないのでこわい。
ので、日常と演技を切り離す試みは色んな場で探す一方、分けにくいこと自体は良しとして、理性と日常の場を確保しておくこともやっておきたい。これは再現性のための話。

即興性と再現性
即興と再現△
再現の即興⚪︎
即興の再現×
特に役割によって良し悪しは変わるのだが、同じ道を通りたいならば再現を即興的にやればよいのではないだろうか、ああでもこれはあまりに俳優の勘に頼った考えですね、人には勧められない。

理性の強い役がどのように身体感覚を閉じ、どこを開いて良いとしているのか、これめちゃくちゃ楽しい。いままでもずっとやってきたことだけど、めちゃめちゃ楽しい。見ている人がいるところでやるのはさらに楽しい。マジで指ひとつチラッと動かすだけで良いんだ。

眉間と背中には要注意 表現にめちゃめちゃ関わるかつワンパターン化を生みやすい身体の原因になっている気がする

ノイズのことを考えた ノイズ、ノイズ、問題はノイズの有無じゃないのかもしれない。ノイズの裏に方程式があるのかどうか。ノイズを散らせばそれっぽくはなる。線をたくさん引けばそれっぽい絵が描けた気になるのといっしょで。いい絵描きは一本でもいい絵を描くし、ノイズのある絵でも芯がある。むしろノイズは魅力になる。ノイズに頼らない純なところから攻めるか、ノイズだらけに波をつけて引き算するのか。

なんかもういろいろ

助けてと言えないから死にたいという しかし助けてと言えないのだから死にたいも言えるはずないのだ 搾りかすの死にたい 自分から出たものがこれはビビるわな

アルコールモミモミしながら出るかあ

演劇的想像力って言葉かっこいいな。かっこいいけど別に演劇的ってつける必要ないな。一見つながりのないものにつながりを見出したり重ねたりすることを促すもの。
死にたみ≒コロナ
ベン図の重なる部分の強調するより、重ならない部分から重なる部分に気づけるほうがオシャレやしお客さんも楽しいよな オマケみたいなもんで ま別に嫌らしくなく重なるならそれでいいんだけども

楽しいという感覚について
楽しいことは良いことだ。しかし表現者ならば何を楽しんでいるか、楽しんだ上で何をやったかだ。しかしそれらも楽しいという感覚で計られるから難しい。楽しいに水を差さずに間違っていることは間違っていると思うとはっきり伝えたい。
いい表現者ほどやっている時は楽しんでやった後は悔しがってる ってこの話の確かさは知らんけど、僕は大事にしたいと思う。どう感じるかはその時々だが、やるときはやって、やったあとに反省して準備する。

PDCAサイクルという言葉はビジネスの香りがして苦手だが、言ってることはその通りすぎる。特に演劇だとplan→doが難しい。意識したプランが全てじゃない。だからcheckしまくる。

フィードバックのあり方
自分のことでも良い。誰かのことでも良い。最終的に次の試みを生む問いとなって残ると良い。僕は自分だけの解釈を自分だけで成り立たせることをもうやめた。可能性を狭める上に演技への悪影響がある。他の人が生み出す新たな一手の存在を信じる。何かをやらせるんでなく、体が勝手に動いてやりたくなるよな、気づきの機会をつくりたい。

共同作業認識が揃わないのはかなり不安というか絶望する。他人同士なんだから当然だけれど、ナイーブ宮地は何回絶望したかわからない。自分もこうやって誰かを絶望させてるんだろう。でも、だから共同作業っていい。心から思う。

地元のすかいらーくがガストに変わった子供の頃からガストってこわいとこがすかいらーくを滅ぼしたんだとずっと思ってたのに、すかいらーくグループなる存在を大学生になって知って、ガストは最初からすかいらーくの手下で、すかいらーくこそがラスボスだったのかと気づいた衝撃がいまだに尾を引いている。好きなファミレスはサイゼリヤ

壁を殴るのは一種の自傷行為だということを高校生か大学生の時くらいに知って、別に壁殴るんじゃないけど、でも確かに自傷行為してたなと思い返す機会があった。自分の頭や頬を叩くのは民族性がありそう。あ、やりたくないことやって辛い苦しいでももっとやらなきゃ、も自傷ですよね。

男という言葉はほんとうに窮屈だ。すべて男らしさに回収されてしまう感じ、僕は何をやっても男であることは変わりないんだけど、いやそうじゃなくて、なんていうかな、僕から出てくる言動ぜんぶ「男だから」って気がしてくる。こうあらねばという範疇に限らない。だからといって男でないわけではない。あくまでもいち属性に過ぎない。

時間の感覚。
動いてる、止まってる、が肝要だ。止まってる…ように思えて言葉を探っていたり前に進もうとしていると感じられたら、動いてる。策略だけで間を作ってる人は止まってる。相手に投げない人も止まってる。
止まってる、はその人の時間が止まってる。それを他人に感じてしまうと僕はその場を去ってしまいたくなる。なんかその人が僕を含めて外界全てをシャットアウトしたつもりでそこにいる気がして、こちらも投げる気が失せる。
テクニックとかじゃなくただの感覚の話

表現の自由をかかげる人間のうさんくささ
民主的な批判から逃れる言葉にもなっている。

ニーチェのいう小児が僕にはまだわからない。駱駝と獅子はわかる。そう、不快はわかりやすいんだよね。なんでかはわからんけど、他人や先人が作ったものに対するイエスノーを出すのはすごく簡単。
ここにきてまた漱石を読むのはアリな気するな。ゆっくり考えよう。自分のことと社会のこと。

ぼく今回の公演の集合写真、たぶん10年後眺めてもニヤニヤできちゃうな 10年後と老後に楽しみとっとこ

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