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2006 幽霊の靴1

幽霊の靴

 宮崎将人の部屋のベランダは、ぼくの部屋の窓から一メートルも離れていないところにあった。早田家の窓から宮崎家のベランダへ飛び、ベランダの鉄柱を滑り降りる。それがぼくらの逃走ルートだった。
 ぼくらは同じ日に同じ病院で生まれた。母親同士が仲良くなったのがきっかけで、将人はぼくの隣の家に引っ越してきた。将人の両親が離婚した小学校六年生の夏まで、ぼくらは双子の兄弟のように育った。
 将人と別れたときの出来事は、大人になった今でも覚えている。
 その日の思い出は、海のかなたの半島を覆うように広がる雲の記憶から始まる。

 その日も将人は、ベランダからぼくを呼んだ。一章、行こう。行き先はいつも決まっていない。ぼくは、白いTシャツとジーンズ姿で、部屋に用意してあるスニーカーを手に窓枠へ上ると、将人の家のベランダへ飛んだ。
 将人はいつもと同じ無表情だった。跳ね上がった太い眉と、逆三角形の一重の目、紫がかった厚めの唇。日焼けした肌に、紺のTシャツと、黒のジャージの短パンを身につけていた。
 ぼくは母親似の顔でひょろひょろしていて、将人みたいになりたいといつも思っていた。
 ベランダの手すりを乗り越えて鉄柱を滑り降りていく。
 家から数分で海岸へ着く。防砂林の暗い松林を抜けると、消波ブロックが遠くにかすむ砂浜へ出る。外洋に面した海は波が荒い。泳ぐには一キロ先の大淀まで行かなければならない。
 時間は午後の三時ごろで、積乱雲から切れ切れに覗く太陽が、濡れた砂を焼いていた。
 空を見上げて将人は言った。
「雨が降るまで歩こう」
 ぼくはうなずいた。将人はいつもぼくを助けてくれたから、今度はぼくが将人を助けなければならない。

 大人になった今でもぼくが一番キスをしたのは将人だ。
 「お母さんにチュウして」、幼いぼくに母が仕込んだ技だ。ぼくは母の友達のほっぺたにキスをしては喜ばれていた。当時のぼくは母のおもちゃに最適な『天使のような子供』だった。
 母はぼくが四歳のときに交通事故で死んだ。姉の由希乃はぼくが通夜の席で母にすがって泣いていたといったが、ぼくには記憶がなかった。
 ぼくが覚えているのは、朝、幼稚園まで車で送ってくれた母の後ろ姿だ。赤い軽自動車に乗って、母は笑顔でぼくに手を振った。そしてそのまま、永遠に帰らない旅行へ出かけてしまった。
 それからぼくは将人の家で眠るようになった。ひとりで寝るのが怖かったからだ。
 ぼくがベッドに横たわる将人にチュウして、と言う。将人は跳ね上がった眉をぎゅっと寄せて、途方に暮れた顔をした。
 乾いた唇が頬に触れる。前髪をかきあげる唇の熱。ようやく深く息ができる。
 ぼくは将人の体温で眠れるようになった。
 今でもぼくは眠りが浅い。眠るためには、猫の毛並みのような毛布がいる。

 将人とキスをしていたのは小学校の一年生のときまでだった。
 ぼくは将人の部屋でアニメを観ていた。主人公が女の子とファーストキスをするシーンで、ぼくはようやく将人の『初めて』を浪費してしまったことに気づいた。
 ぼくは将人にキスをやめよう、と言った。ごめん、と。将人は一瞬驚いたようにぼくを見つめて天井に目をやると、構わないよ、と言った。
 ぼくはもう将人の家には行かないと言った。将人は、この先も来ていいと答えた。一章がいるほうがよく眠れるから、と。
 結局、ぼくは将人の家に行くことをやめなかった。
 夜目が覚めると、ぼくは将人の鼻先に手をかざして呼吸を確かめた。一回・二回・三回・四回――ぼくは、将人がぼくの一日でも後に死んでほしいと願った。

 将人は人の役に立つ行為をするのが好きだった。しかし、それを感謝されるのは嫌いだった。ぼくは将人を変な奴だと思っていた。
 が、将人はいつもぼくのほうが変だと言っていた。
 ぼくが五感を再現するタイムマシンが欲しいと言ったときもそうだった。
 そのタイムマシンは、見ている景色や温度、感情、音などをすべて再現できる映像のようなものだ。ぼくはそう将人に説明した。
 将人は投げ出すように、変な奴、と言った。
 大人になってから、ぼくはプラスティネーションという人体標本があることを知った。人間の身体に透明な樹脂を流し込んで輪切りにした標本だ。
 空間のなかに透明な樹脂を流し込んで、時間を輪切りで保存できたらいいのに。
 時間を巻き戻すと、ぼくらの家は以前は松林、その前は砂浜、さらにその前は海だった。この土地は松林だったころのことを覚えているだろうか。そして波打ち際だったころのことも。
 地上にあるものがなくなってしまう。それがぼくは寂しくてならなかった。壊れてしまった台所の時計も、お母さんがいたころは動いていたのに。ここが海だったときは、フタバスズキリュウが泳いでいたのに。
 ぼくは何でも記憶しておこうとした。しかし記憶はすぐにぼやけてしまう。ぼくは一昨日食べた夕食のメニューさえまともに覚えていない。

 空は薄墨色の雲に覆われて、だんだん暗くなってきていた。
 ぼくらは大淀まで歩いた。
 大淀は天然のプールになった岩場の浅瀬だ。ぼくらが海へ入ると、魚たちはナイフが飛ぶようにいっせいに外洋へ逃げていく。先ほどと同じ海なのに、魚が去った後のうすい緑色の海には、藻がゆっくりと横切っていくだけだ。
 ここで時間のエレベーターを降りたら、首長竜に会える。しかし、エレベーターの降り方がわからない。
 そして、もう二度とここへ将人といっしょに泳ぎに来られない。
 でも仕方ない。
 仕方ないんだ。真利さんが将人の「お父さん」をやめてしまったのだから。

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