見出し画像

「推し活」とは結局何なのかを、人を巻き込んで考えてみました 〜『「推し」の科学』ABDレポート

7月7日(日)の七夕の日、1年ぶりに大人向けのABD読書会を開催しました。
今回はその開催レポートを・・・というよりは、私自身の興味から始まった「推し活ってなんなんだ?」ということに対する探求レポートになりました。

レポート以外の余談が少し長めですが、よろしければどうぞ。


(こんな感じで企画していました↓↓)

(私の)推し活のきっかけ

アメリカ・中国・韓国・日本の4カ国の高校生を対象に行った調査によれば、日本の高校生は他国に比べ、SNSで「推し活」を行う人が多い傾向にあったといいます。

かくいう私も昨年から、まごうことなき「推し活」をするようになりました。

きっかけは昨年の夏、とあるゲーム実況者のイベントに参加したことです。
コロナが明けつつある2023年という背景もあって、イベントは告知段階からまさに「お祭り」と呼ぶに相応しい盛り上がり。
イベントを最大限楽しむため、わざわざ閲覧用のSNSアカウントを作って情報収集したり、当日は勇気を出して他の参加者の方に声をかけてみたりもしました。

その余韻が残ったまま、今度はあるゲームのファンアートを描き、あるアニメでは二次創作小説も書きました。ジャンルはバラバラながら、その年の夏は今までやったことがないことに挑戦し続けた夏になりました。

しかし、ハマっている最中からずっと頭にあったのが、以下の疑問です。

それは「私は一体何をしているのか?」とか「今更なぜこうなったのか?」ということ。

子どもの頃、好きなマンガのイラストを描いていたことはありました。
しかし当時はSNSが普及前だったので、「趣味を誰かと共有する」ことにおいては、今が一番適した時期といえるかもしれません。

それでもなお、なんというか、大人になった妙に冷静な自分が、「今更なんでわざわざ推し活?」という感覚が消し去れない、みたいなモヤモヤがありました。
そんな状況を体系的に把握するには、本しかありません!

本との出会い

ということで、昨年からしばらく本屋を探してみましたが、「推し活のマナー」みたいな本はあっても、良さそうな本がなかなか見つかりません。
そもそも「推し」という言葉が普及したのは最近のことなので、「研究」ほどには至ってないのかなー、と思っていたのです。

そのことも忘れかけていた今年の初め。
なんとなく旅行先で立ち寄った本屋さんで目に入ったのが、『「推し」の科学 プロジェクション・サイエンスとは何か』(久保(河合)南海子著、集英社新書)です。

まえがきで、アニメ映画の応援上映に「救われた」経験を語る著者のエピソードを読み、これだ!となりました。

パラパラと中を見ると、これは「一人だけじゃなくみんなで読むのも面白いかも・・・」という読書会欲が触発され、購入してから全部は読み込まずにとっておきました。
そして今年の夏、満を持してのABD開催に至ったのです。

過去でいちばん、話し足りない会

ABD読書会当日は欠席者もあり、私と参加者4名だけの非常に少人数な会になりました。
人数が少ないため、読む範囲を1章と2章、6章に限定してコ・サマライズ(要約フェーズ)を行いました。続いてリレー・プレゼン(発表フェーズ)では中身の発表。あっという間に一冊の約半分ほどが要約されました。

そして、一番最後のダイアローグ。今回は、参加者それぞれが持ち寄った疑問に少しずつ触れながら対話する形になりました。

読書会を終えての感想は、「話し足りない!!」ということに尽きます(笑)。

といっても、参加者は推しがいる人ばかりではありません。
推し語りで盛り上がるというよりは「推し活とはつまり何なのか」「なぜ自分にとってその推しが魅力的なのか」といったように、内容を整理しながら進めました。

あくまで本を参考にした議論なので、本の内容にはあまり触れていませんが、
ダイアローグで出た内容を少しシェアします。

・「推し活」=自分の好きを世界に向けて発信すること。世界とつながる手段。
・「推し」はただの「好き」はちょっと違う。
・「推し」は他人に強制されない、自分だけのもの。オススメされても、好きになるかはその人次第。

当日のようす。

「推す」という活動には自分の好みや感情が乗っている以上に、何かしらの自発的行動を伴うというニュアンスを含みます。
その点で、単なる「好きでいる」こととか「萌え」といったものとは異なるように感じられます。

また、推し活は自分の好きを広める過程で、自己表現になりうるという意見がありました。他人に勧める行動はあっても、それを好きになるかどうかはその人次第という前提です。

また「推し」という言葉には「その対象を経済的に支える」というニュアンスも感じます。
そのため、例えば食品メーカーや何かしらの企業活動において「推しを作ろう!」みたいに他人に作されるような風潮には、冷めてしまうという意見もありました。

今回のダイアローグは、「推し活」について理解を深めると同時に、あらためて自分がなぜ「推し」ているのかを考えさせられました。
そして、その理由を言葉にするには、短い時間ではとても足りませんでした。

なにしろ「推す」という行為を突き詰めると、自分の人生を紐解いたり分析したりといったプライベートな部分に結びついていきます。
短い時間で自分の人生を語り尽くせないように、今回のダイアローグの時間では、自分なりの答えにすら辿り着くのが難しかった。

個人的には、そういった「自分の中の大切な部分」を表す言葉は、一生をかけてしっくりくる言葉に出会えたらいいなというレベルに感じています。

そのため、今回のダイアローグがもの足りない感じになってしまったことは否めません。
ただ少しでも参加者の心に残り、考えるきっかけになっていればいいなと思います。

【まとめ】私にとって、推し活とは何なのか?

最後に、現時点での私なりの「推し活」をまとめておこうと思います。

そもそも私の「推し活」への疑問は、「私は一体何をしているのか?」「なぜ今こんなに夢中になっているのか?」でした。
今思えば、その姿勢は少し肩肘張ったものだったかもしれません。

今回の本を読んで、また、読書会を通じて、自分の中に「推し活」と言えるもの以外に、いろんな「好き」のグラデーションがあっていい、という気づきを得ました。
それが「推し活」でないからといって、悪いわけでも中途半端なわけでもない。推し活は「やらなければいけない」ものではない。
誰かに強制されない、自分だけの範囲で成立するものです。

読書会が終わった後、実は私の中に、推しへの熱が冷めてしまったことへの罪悪感があったことに気づきました。
でも冷めたとしても良かったのだと、今は思えます。

「あなたにとって『推し』が何なのか」の答えは人それぞれ違いますが、
それ以前に、推しがいるもいないも自由です。

なので、今「私にとって推し活とは何か?」の答えを出すなら、
「思ったより自由な活動だよ」ということになります。

問いを立てた当時に想定していたより、曖昧な答えになりました(笑)
が、推し活について無意識に力を入れていた時より、肩の力を抜いて考えられる今の方が、好きなものとの関係を楽しめるようになった気がします。

今回、機会を与えてくださったABD参加者の皆さま、ありがとうございました!

ちなみに、このブログでは本の内容についてはほとんど触れられていません。。本について気になった方は、ぜひ読んで見てください!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?