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我が家のニャンコ先生からおそわったこと

この note で、猫に関する文章や写真は多い。
それくらい猫好きが世の中に多いということであろう。
我が家にも二匹の猫がいた。
茶トラ白の『トラ』は一昨年末に先に旅立ち、今いるのは三毛猫の『ブウニャン』一匹となった。
私と猫の関係は子どもの頃から互いに『空気のような存在』だった。
そこにいる、それだけである。
自然と目に入るから猫の体の動きはよく知っているつもりである。
猫の立居振る舞いには無理や無駄がなく、私がやっている合気道に通じるものがある。

そして、猫を縛れるものは無い。
猫はいつでも、24時間、365日自由である。
私の知る猫はすべて自由気ままであった。
家猫は夜行性ではないと思う。
遊びに行きたい時に遊びに出る。たまたま夜、遊びに行きたくなるのであろう。
夜目が利くから夜行性と思われているようだがもう野生ではない家猫は夜、気に入った主人の寝床に必ず帰って来る。

猫は本当に自由である。
そしてその自由が猫の幸せである。

昨日は合気道の稽古の日であった。
稽古に来る子どもから「先生いつから合気道やってるの」と聞かれ、「君のお母さんの生まれる前から」と、答えた。
その時はなんとも思わなかったのだがこの時間になりいろんな事を考える。昭和で稽古を始め、平成を駆け抜けこの令和に変わって三度目の春を迎えている。
思えば長く続けてきたものである。
猫の幸せと同様、自由に好きで続けてきた合気道である。
とりたてて考えなければ日常の一部のこととなっており、合気道していること自体、意識などしないこととなっている。

この『意識などしない』ことなのである。

どうやら先に逝ったトラも、今いるブウニャンも自分を猫と意識などしていないようなのである。
私も家内もサイズが違うだけの仲間だと思っている節がある。

大学を卒業するときに死んだ師範から「これからは生きることすべてを合気道だと思え」と言われた。
それから、年齢とともにその言葉の解釈は変わっていった。
そして、猫を見ていてたどり着いたのは、『意識しないこと』ではないか、と。
生活そのものが合気道である。
考え方が合気道なのである。

猫は好きに行動している、そして毎日同じ行動を繰り返す。
私がうらやむ猫の動きは骨格であり、DNAである。
私たちのやっている合気道は日々の稽古の積み重ねである。
畳の上での合気道の動きは稽古の末に『意識しないこと』と同じになっていく。

私がここで思い出すのは『いなかっぺ大将』に登場するニャンコ先生である。
ニャンコ先生が未来の柔道家の風大左衛門に教えたのは『キャット空中三回転』だけではなかったと思う。
まだ子どもの風大左衛門に人生訓を説く場面もあったと思う。
柔道の技術も人の生き方も説く先生だったのである。

私のそばを何匹ものニャンコ先生が通り過ぎた。
今の自身の年齢を考えると今家にいるニャンコ先生が、この世から去った後には新しい先生を迎えることは出来ないであろう。

ならば仕方ない、その時が来たら、私がニャンコ先生になろう。
それもできれば、一番自由な野良猫のニャンコ先生になろう。
子ども等に合気道の技術も人の生き方も説く野良猫のニャンコ先生になろう。
(まぁ、あくまでもこれは希望ですが、、)


15年で生涯を終えたニャンコ先生のトラ

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二人はまあまあ仲良しだった

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