見出し画像

週末の時間

金曜、土曜と久しぶりのショートトリップ。
まずは、愛知県田原市、兄の待つ障害者支援施設に向かう。
新緑たちは先輩たちの緑に混じる。パッチワークのようなそれはいつも私の目を楽しませてくれる。
三河田原駅で借りたレンタサイクルは27インチの変速機付き、スポーツタイプでゴムチェーンが最近マイサイクルに定着している。
自転車にはずっと興味を持っていたつもりだったがゴムチェーンとは初めての出会いだった。

兄は相変わらず。腕時計が壊れたと言う。丈夫なGショックを買う約束をして別れた。

昼は豊橋駅前の「平和食堂」、金曜の定食は焼肉定食650円也だった。
初夏を感じさせる乾いた空気が店内に流れ込み、店員の若くはないお姉さんが小気味よく動き、炊き立てのご飯は美味く、開店したてなのになぜか煮詰まった赤だしの豆腐が私の好みだった。
豊橋には似つかわしくない腕、顔と多分全身塗装の建設作業員風のアンちゃんが私の横顔を食い入るように見つめてカツカレーを食っているから、ウインクしてやったら、恥ずかしげに下を向いていた。

なんだか最近疲れていて、これも歳を重ねたせいかなと思いつつも、新幹線の長道中は身体に応える。
東京にはディスカウントで買ったこだま限定のグリーンのチケットで熟睡した。
気がつけば品川、東京での最初の目的地は幡ヶ谷、同期の経営する税理士事務所に向かった。時々会う男であるがいつも話は学生時代の思い出話となる。
そしてこれからの話、明日の大学同窓会の幹事会の話(彼が同窓会の監事をやっている)、同窓会の今後の話を聞く。ビールを飲みワインを飲みハイボールを腹いっぱい飲んで、話しは尽きなかったが終電近くなり、私は新宿御苑近くのホテルに向かった。

そして土曜、せっかく近くまで来ているので久しぶりに合気道本部道場に寄ってみた。
そして様変わりに驚き、寂しさを感じた。
近くの喫茶店にでも寄ろうと思って行ったが喫茶店が一軒もないのである。早くに他界された市橋紀彦師範方と稽古後に行った「小島屋」も「タバサ」も、もう無いのである。今の学生たちはどこで説教を受けているのだろう。それ以前に説教なんて無いのかも知れないと思ってみれば寂しさはさらに募ったのである。

本部道場近くの抜弁天、この神社向かい右手の石貼りのビルが喫茶店「小島屋」だったと思う。稽古後にいつも市橋先生とともに時間を過ごした。

本部道場の先生に挨拶した。
40年近く前、その先生が奉職されたその日にたまたま私は居合わせた。稽古を控えて更衣室で着替えていた私の目の前に大きな怒鳴り声とともにコロコロと転がり入ってきた先生が現在七段でトップの師範になっている。一般企業に就職したものの、うまくいかず佐々木将人師範に相談し、その日そのまま再び稽古を始めさせられたそうである。そして今日まで続いている。今は亡き佐々木師範の門下の大学OBである。

もうお一人、八段の師範がタクシーで乗り付けた。こちらをわき目で見ながら玄関に駆け込んだ。しばらくすると木刀を入れたバッグを担ぎ出て来た。私に向かって「君は、、」という。「宮島です」と返事すると「おお、」と言って大きなぶ厚い手を伸ばしてきた。握手し挨拶をした。この方も佐々木師範の門下の大学OB、当時は「鬼の〇〇」と呼ばれ、恐ろしくて一緒に稽古したくない指導員だった。それが優しい顔の鬼に変わっていた。私が大阪で人を教えるようになったことを喜んでくれ、「俺は70になったが、まだまだこれからだ、君も頑張ってくれ」と言われ別れた。そのままタクシーで講習会の会場へ向かった。
実はこの先生が鬼と呼ばれていた時代に私の目の前で流したことがある。この先生の後輩の進退の問題からであった。いずれどこかに文章で残したいものである。

右側が合気道本部道場、この向かいの緑の植え込み(左側)辺りに、学生時代、頭を丸めて同期三人で直立不動の姿勢で立って市橋先生が出てくるのを待っていた。そこを大澤道場長が私たちの坊主頭をポンポンと叩いて「今度は何をやったんだね」と笑いながら通り過ぎて行った。

そこにこの写真の通りをこちらに向かい歩いてやって来る方が現れた。東京ショートトリップ土曜の一番の目的の主人公である note での先輩、菊地正夫兄貴である。菊地兄貴は昨年末に大病を患い、入院された。今回私は菊地兄貴の生存確認にやって来たのであった。歩く姿に病の影は残らず、お元気そうな顔に出会えて、本日三人目の熱い握手を交わすことができた。

ご自宅からこの本部道場まで1,800歩だそうである。そして、また2,000歩ほど、菊地兄貴の母校のある早稲田に向かった。緑あふれる戸山公園の脇を抜け土曜日でも学生たちのあふれる早稲田の町であった。大学南門手前にその入り口はあった。

菊地兄貴の未来のご自宅である。
大学キャンパスに隣接するものの、通りの喧騒は全く聞こえてこない静かな静かな場所であった。若き日の青春の地に見つけられた「永遠とわの宿り」である。二十歳から半世紀に渡って菊地兄貴の青春はこの地で続きまだまだ続く、そしてその思い出とともにこの地で永遠に続くのである。
なんとも羨ましい話である。

次回はこの桜の木の下で缶ビールを飲み交わす約束をした。その時にはノンアルビールは卒業していることを願う。


菊地兄貴の「おみ足」、すでにハーフパンツの季節が東京にはやって来ていた。


タクシーで新宿駅まで移動して、昼からやっている居酒屋で話をした。話は尽きぬが日曜は私の稽古がある、泊まるわけにはいかず新宿駅で菊地兄貴と別れた。


東京は人と思い出であふれていた。
新大阪から御堂筋線に乗り換えると土曜の夜ということもあろうがガラ空きなのに違和感をおぼえた。新幹線の車中では席に着いたほぼその瞬間に眠りに入り一度も目を覚ますことなく新大阪駅に着いたから、なおさら御堂筋線の人の少なさが不思議だった。やはり大阪は田舎なのであろう。


すっかり酔いは醒め自宅最寄り駅で缶ビールを買って今回のショートトリップの締めとした。「俺は大阪の人間なのかな」と、未だにじゅうぶん大阪に馴染めない自分を感じるのであった。歩けば汗ばむ大阪の夜だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?