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いつまでも忘れない夏の始まりの記憶

63年間、生きてきました。家族という枠組みに疑問を感じることなくともに生活する父母、障害を持つ兄と生き、二十歳で家を後にし上京してからもその家族のもとへ帰ることは当然だと思い疑問など持ったことはありませんでした。そんなふうに私の意識に刷り込まれた家族感のようなものはどうやって出来たんだろうと最近考えます。大げさな言い方をしますが自分の人生の半分くらいをこの家族に捧げてきたと思っています。それで両親や兄を恨むことはありません。正確に言うと今はありません。「当たり前のこと」そう思えるようになっています。父母の壮大な子育て作戦のなかで私は教育・洗脳されたのでしょうか。いえいえ、私の両親は決してそんな狡猾な人間ではなくただただ真面目な人間でした。決して裕福な家ではありませんでしたが、私と兄が多くはなかった友達のなかにいて、惨めな思いはしないように人並みな経験はさせてやろう。そんな意識は持っていたように思います。今の私はそんなことをいつも気にかけていた両親の日頃の背中を見ることで出来上がっているようです。

四季折々に私は家族のことを思い出します。良いことも、悪いことも思い出し懐かしみ、時には悲しくなり、時には心熱くなることがあります。
わりと子どもの頃から四季を意識して生きてきたように思います。近年の夏、今年の夏は特におかしいのですが、私は夏に入りゆくこの季節がまあまあ好きです。この季節にいくつもの思い出を持っています。今日はそんな中の思い出の一つ、この時期にいつも思い出す私の忘れることの出来ない大切な思い出です。
この note にやって来て3年半の間に書いた文章のなかで私が一番好きな文章かも知れません。当時、特別なものであった「夏休み」を前にした短い文章です。なにがどうだと、うまくは言えないのですが、こんな文章を書くことが好きです。「研師ヒデ」を考えたり、「自分のサラリーマン人生」を振り返るよりもずっと好きです。なんだか、仕事と趣味の違いのような感覚があります。
たった今、単純な私の脳のなかは、その頃の夏休み前の思考になっています。加筆修正していますので一読いただければ幸いです。


少年の頃 海の日 7月20日 青い空に白い入道雲そして広がる海、夏休みの始まりである。

買ったばかりの父の軽ワゴンに家族四人で乗り込み海水浴に行った。
愛知県豊橋市は渥美半島の付け根、伊良湖岬に行く途中にある。

半島の外側は太平洋、波が荒く遊泳禁止の外海では両親には内緒で悪友と泳いだ。
白くどこまでも続く太平洋岸の砂浜の行き着く先は島崎藤村のうたった『椰子の実』の恋路ヶ浜である。
この歌に心打たれるのはまだまだ先のことである。

そんな外海とは対照的に内海は静か過ぎるくらい静かだ。
国道から脇道に入って松の林を抜けると波が白く光る小さな入江が目に入る。
そこに臨時の海水浴場があった。

両親の監視の下、障害を持つ兄と浮輪につかまり日がな一日クラゲのように漂った。
そして昼は塩辛い母の作った丸く大きな塩むすびを食べた。

それから兄は母の膝を借り木陰で昼寝、私はまたクラゲになった。

一日良い子でいた。

父母は夏休み初日に親としての義務を果たし、次の日からは毎日働きに出た。

私は兄とまだクーラーなど無いアパートで休みの間を過ごした。
はっきりしない漠然とした不安を抱え本ばかり読んでいた。

夏の日、夏休みが始まるとあの時の気持ちが心の底から湧き上がってくる。
青い空、白い入道雲とは対照的なモノトーンなあの部屋の灰色が心に広がる。

もうこの時の「家族」は存在しません。
でも、いつまでもこの時のことは私の記憶に残り、毎年この時期に思い出され、それは死ぬまで続くことでしょう。
そして、いつかはその記憶も私の家族もこの私のことも忘れ去られてしまうでしょう。
無くなってしまう記憶や感情はどこに行ってしまうのかいつも不思議に思います。
たぶんずっとその不思議を抱えながら、私にもそのうち遠いどこかに行ける日が来るんだろうと思っています。

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