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エンドウ豆でおもいだす

三十年間サラリーマンを続け、つくづく向いていない仕事だと思い辞めさせてもらい五年の時間が過ぎる。
三十年という時間はあまりに長く、辞める選択を出来ない自分の勇気の無さに嫌気をさしながらも、生きていくため、次々と迫り来る家族の看病と介護のため、辞めるチャンスを失ってしまった。

そんなサラリーマン時代ではあったが、ゼネコンの営業には定石が無く、普通に生きていたら知ることの無い世界をのぞかせてもくれて面白かった。
辛く厳しい世界であったが、金を稼ぐのに辛く厳しいのは当たり前、そう思い24時間365日の心づもりで仕事に当たっていた。

そんな仕事と家族の介護に区切りがつき、大阪市阿倍野区、『あべのハルカス』の裏あたりにある古くからある飲み屋街の一角に運よく店を借りることが出来て1年半立ち飲み屋をした。

もともとラブホテル街だったそのエリアは時代とともに商業ビルや飲食店舗に業態を変えてホテル経営のオーナーたちは生き延びてきた。
私より年上の方が多かった。
新参者の得体の知れない私に皆さん優しくしてくれた。
皆さん街を愛し、良い街になることを願っていた。
いつも皆さんは私の店を皮切りにして阿倍野の夜に流れていった。

そして、付近は今では学区の良いエリアとなっており、分譲マンションが林立する場所でもある。
そこに住む私より5歳上の建設関連の会社社長が、毎日開店時刻17時ジャストにロードバイクで乗り付けてくれた。
同じ業界で過ごした私に話がしやすく、帰宅前の憩いの場だと40分かけて走って来た汗をぬぐいながら、うまそうに生ビールを飲むのがいつもであった。
いつも私もごちそうになり、ほかのお客さんが入ってくるまで飲み屋で出会った客同士のように時間を過ごせた。

そして、この社長が好きなのがこのエンドウ豆の卵とじであった。
なのでこの時期いつも用意していた。

ウスイエンドウをずっと豆の皮の薄いエンドウ豆だと思っていた。
私の住む八尾のお隣の大阪府羽曳野市碓井地区のウスイから命名されていると知り驚いた。
社長のために羽曳野までエンドウ豆を買いに行った。

今、この写真を見ているとこの一粒一粒に当時の思い出と恩義が詰まり、多くの感謝も詰まっているように思う。



さらに人生の二転三転の追い打ちが続き、一年半だけの営業でしたが本当に多くのお客様から愛していただけました。
そこでの思い出を綴ろうと思います。
やっとそんな気になれた今、気の変わらないうちに手を付けようと思います。

少し先になるかも知れませんが、、、
今回をそのプロローグとさせていただきます。

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