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きんぴらごぼうと幸せ

冬の寒い日に頂戴した八尾の若ごぼうを思い出す。
土にまみれた葉の泥を洗い流すと指先の感覚は無くなっていた。
スーパーに年中並ぶごぼうの旬など考えてみたこともなかった。
寒い日々に旬を迎えるごぼう達はこの異常な暑さの中でも毎日元気にスーパーの陳列棚に並んでいる。
冬のごぼう達とは種類が違うのであろうそのごぼうを連れて帰ってタワシでゴシゴシ洗う。白い肌が現われるがすぐにアクはその表面を黄色く染める。あまり気にせずなるべく長さを合わせて刻んでいく。まあ、いつも適当である。

ごぼうは太くて身が詰まっていた。買い物袋に収まらないごぼうを片手に握りブンブン振り回して歩くのは私のDNAに起因するのだろう。暑さで誰も外を歩いてはいない。砂漠の国での少年少女たちの買い物はこんな感じなのだろうか。彼ら彼女らもごぼうを片手に振り回して歩き、ロレンスのような夢を見て灼熱の砂漠を歩き家に帰るのだろうか。いやそれは無い。砂漠の真ん中にスーパーは無いだろうし、だいたいごぼうを売っていないだろう。いつもそんなことを考えてスーパーに行き、いつもそんなくだらないことを真剣に考えて料理をしている。

いつからだろう。以前は四六時中仕事のことを考えていた。その思考を停止させるために毎晩酒を飲んでいたかも知れない。でも寝言でよく上司と喧嘩をしていたらしいからあまり効果は無かったということだろうか。
実は自分で分かっている。
親父が死にかけ、母の認知症が悪化していき、兄のてんかんの発作は私一人ではどうにもならなかった時期だった。その時に開き直れたから今の自分がある。大きな大きな峠を越せば、次にやってくる普通の峠など峠のうちにも入らないのである。介護休職して実家に戻り3人を病院、介護施設、病院へと送り込みひとり実家で毎晩料理をしていた。そして、親父が最期まで手を付けずに残していた高いウイスキーを端から空にしていった。
その頃から頭の切り替えができるようになり、辛いと思うことが消えていったのである。

実はスーパーでアボカドも買った。デカいのを二つ、まだ青い硬いヤツと黒くて柔らかいヤツだ。この硬いアボカドもいざとなれば何かに使えそうである。帰って柔らかいヤツを潰してパスタと和えた。甘いアボカドは優しい味のパスタになった。
硬いごぼうのきんぴらと、柔らかいアボカドのパスタとなんだか変な取り合わせであるがどちらも美味しくいただき、美味しい時間が享受できた。
家で時間がある時には一人で買い物に行き夢想し、帰って料理して熟考し、口に運ぶ時には酒を飲んでいる。そんな時間がこの歳になってやっと巡って来たことを幸せに思う。未来永劫続かぬ幸せであろうとも、今のこの時間を幸せと感じることが出来るならばそれでいい。
永遠の幸せは無い。断続の幸せの集合と幸せだった記憶だけをつなぎ合わせて誰もが幸せを口にするのであろう。
私はそれに近づけた今を嬉しく思っている。


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