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生きるためにやって来た仕事のはなし

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なかなか理想を仕事とすることは難しいもの、食べるため、生きるためにしてきた私のサラリーマン人生です
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#人を育てる

ほたるのはなし

季節外れのはなしで申し訳ない。 暑い暑い夏の夜に飛び交う『蛍』のはなしである。 note の『傘わっしょい』さんの短歌が好きで、毎晩一首づつ読ませてもらっている。 その中にある昨年末の短歌が私の記憶の引き出しに手を掛けた。 短歌 壁ホタル 人感センサーライト センサーの狂ひし蛍のやうにしてわれはありなむたれからもひとり の『狂ひし蛍のやうにして』とセンサーを蛍に比喩されているのだが、たった一度だけのこと、それも生まれて初めてたくさんのホタルの群れに包まれたことを思い出

北の国からの便り

昨日、ゼネコン時代の大先輩からLINEで写真が一枚届いた。 「これが来年三月までとけることのない根雪になる」と。 住まい近くの札幌市内の公園だと言う。日本の広さを感じずにいることは出来なかった。 私より10歳ほど年上だと思う。当時の私のいた会社は野球部、バスケットボール部が強く野球では都市対抗に常連、バスケ部も何度も全国優勝を飾るチームだった。 この先輩はバスケ部出身、身長は180cmほど、バスケ選手の中に入れば決して背は高くない。しかし逆三角の背中とパンチパーマいつも鋭い

熱い暑い夏のおもいで(その3)

ゼネコンに入社して5年、自身の希望とタイミングで営業部へ移動した。 建設会社という技術屋の集団の会社に事務屋で入社した私の消去法による選択の移動でもあった。 末端の現場、その取りまとめをする営業所、その上部組織である支店、本社での事務仕事しか社内での私のサラリーマン人生の選択肢はないものと思っていた。 明るい見通しを見いだせなかった私は退職を当時の営業所長に相談した。 「ならば営業に行くか」と私が持ち合わせていなかった選択肢を提示してくれた。 古い体質の業界であり、多くは高

熱い暑い夏のおもいで(その2)

入社三年目の初夏、私は営業所のぬるま湯生活から脱出した。 京都南部、大阪に隣接する町での大手電器メーカーの研修施設の新築工事現場に着任した。 設計施工の工事で大阪支店でも力を入れているメインの現場の一つだった。 当時の現場事務の仕事は事務作業以外の仕事がメインだった。 いわゆる何でも屋であり、地元からの苦情や発注者との対応、現場作業員の安全・労務管理、現場作業の手伝いも行い、その他もろもろの雑用をこなした後に、原価管理の本来すべき仕事は待っていた。 朝一番は現場事務所1階

熱い暑い夏のおもいで(その1)

ゼネコン入社一年目、京都出張所の朝は早かった。 1985年のまだ暑い夏の終わりに京都出張所に着任した。 久しぶりの新入社員はいつまでもお客さん扱いだった。 建設業での事務はどんなものか入社前に想像がつかなかった。 山奥のダムやトンネルの現場に行かされるものと思い、大学卒業前に虫歯の治療だけ済ませた。 しかし、そんな心配はまったく無用な京都市内の出張所の勤務であった。 当時の出張所は営業の拠点であり、現場の統括部署であった。 大阪支店内の小さな支店のようなものであった。 土木

また会う日のためのわかれ

自身の年齢を感じることが増えてきた。 体力は落ち、酒は弱くなり、食べる量まで減って来た。 こんなことが加齢なのかと実感するのである。 しかし、私に一番それを強く感じさせるのは訃報である。 皆が平等に年齢を重ねるのだから、当たり前のことではあるが。 ゼネコン時代に一番世話になった大先輩の訃報がやって来た。 京都営業所時代に言葉で表現できないほど世話になった方であった。 ご苦労をされてきたから人の気持ちがわかる、そんな見本みたいな先輩だった。 多くを語らないカッコいい人だった