感覚と理解 #写真
私は好きなものは何かという質問が好きではない。
私は、特に好きというものはない。
私は、特に嫌いなものはない。
ないわけではないが、思い付かない。
そもそも好きとはなんなのか。よく話題になり、自分なりに理解はあるが、それでも冒頭の質問には答えられない。
以前さまざまな小説の好きの解釈をまとめたものを見たが、納得できるものはなかった。
好きというのはなかなか難しい。
好きなものはというと「お兄ちゃん」といっていた弟を見て微笑ましく思った。
好きなものを簡単に言えるのはいつもすごいと思う。
好きなものがあってそれをやっているのはすごいと思う。絵なり、ゲームなり、スポーツなり、勉強なり。
好きになることはあるが、好きで無くなってしまう。
全てかけてもいいと思えるほど惹かれることはあるが多くは長続きしない。それが「好きなもの」となると存在しないのではないか。少なくとも自分にはわからない。
好きになって長続きしたものは、日常に変わると思っている。日常から好きを見出せない。全ての趣味をまとめるために始めた写真はすでに日常である。ほとんどのとき持ち歩いている。
一目惚れは、好きなのであろうか。友人は違うと言っていた。今の私もそう答えるだろう。それは知覚として好きなのだろう。好きなリズム、好きな色、好きな感触、好きな匂い、好きな味。ある種好きとも言えるのだろう。
しかしながら、好きと認められない。
ものには歴史があり、背景がある。それを理解した上で好きと言いたい。
小さい頃私も直感で好き、嫌いと言っていたのだろう。
小さい頃は多くの子が好きなものを日々話すが、私はその点で疎外感を抱いていた。私の家では、やると決めたことはやり切りなさいという鉄則があったので、ゲームは二の次であった。ゲームは買ってもらったことがない。勉強をすると決めてしなかったからだ。ゲームは友達の家でやっていた。
兄弟がいるのでテレビは争奪戦になる。私はテレビならなんでもよかったので兄弟が見るのを見ていた。残念ながら私の同級生の多くとは話が合わなかった。
自分の好きなことを話しても理解が得られない上、相手にされないためそれから自分の好きなものを極力言わないようになった。友人が言っていたもの、他人が私に似合っていると思うと言ったものを好きだと言うようになった。
好きと言うのは難しい。難しく考えれば難しくなるのは当然ではあるが、納得できるまで考えるのは小さい頃からの癖なので治そうにも困難だ。
衝動的な好きによって動いているので、ある一定の趣味を持つ人を羨ましく思う。
とにかく私の「好き」な知覚を好きにするために好きな感覚をカメラで収めてきた。以下はその説明になる。
写真は以上になる。
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