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記号論理学はアリストテレスをどう乗り越えたか②

前回の記事では現代の記号論理学と伝統論理学を比較し、三段論法という段階では両者に差がほとんど認められないことを確認した。今回は伝統論理学が抱える困難について見ていこう。


伝統論理学における困難

たしかに、記号論理学は数学的に扱えるようになったことでプログラミングなどでの運用が可能になった。ここは明らかな強みである。しかし記号論理学はただ数学の分野として扱えるようになっただけではない。伝統論理学での二つの困難に出会わずにすむのだ。

Ⅰ.多重量化

(1)誰もが誰かを愛する(すべての人間は愛している誰かがいる)
(2)誰かは誰からも愛される(すべての人間に愛される誰かがいる)

つまり、(1)はひとりひとりに愛し合う関係があるということであり、(2)は誰からも愛されるスーパーアイドルのような存在がいることを意味している。

明らかに別の内容であるのにアリストテレス論理学ではこの違いを区別できない。例えば:

花子は太郎を愛してる
太郎は花子に愛される

のように能動⇔受動文は花子,太郎という名詞同士の交換にすぎないように見える、この交換では意味は変化しない。しかし:

すべての人は誰かを愛してる
誰かはすべての人に愛される

は上で見たように単なる交換にすぎないにも関わらず意味が変わってしまう。単なる交換にすぎないならばどちらか一つの表記法があれば十分だが、意味が変わってしまうのではそれでは不十分だ。


これはアリストテレスの論理学が一つの名辞にひとつの量化しか認めていないためだ

そして(1)、(2)の違いを示すには量化子を多重に作用されなければならないのだ。

(1)$${\forall x\exists y(Lxy)}$$
(2)$${\exists x\forall y(Lyx)}$$

(Labはaはbを愛するという述語)

量化子は∀xと∃xの二つの演算子があり、
それぞれ「すべてのxは〜」,「少なくとも一つ~であるxが存在する」と読める。

このように(1),(2)では$${ x,y}$$のそれぞれに掛かっている量化子が異なるのだ。そしてこの量化子の発明こそ記号論理学が伝統論理学を乗り越えたと言われる所以である。

この量化子を多重に組み合わせられるようになったことで述語$${Pa}$$(aはPである)だけでなく、$${Pab}$$(aはbをPする(愛するなどの二項述語)、$${Pabc}$$(aはbにcをPする(私はあなたにマフラーを貸す、私(a)は弟(b)と兄(c)と家族の関係であるのような三項述語)…のように多項述語を論理学は扱えるようになったのだ。

Ⅱ.高階述語

アルキビアデスは偉大なギリシア人に必要なすべての美徳をもっている


これは二階の述語論理と呼ばれる範疇の命題だ。

二階ということは一階があるのだが、一階述語論理は今まで見てきた普通の述語論理のことで、量化の取れる範囲が個体(私、ソクラテス、りんごなど)に限られるということだ。二階述語論理では量化の取れる範囲が個体に加え述語(性質)(…は赤い、…は死ぬなど)を含む。すなわち述語の述語といえる。伝統論理学において二階の述語をどう扱うかは定かでなかった

まずこれを一階の述語で簡単に表現してみよう。$${Vt}$$を「tは(偉大なギに必な)美徳である」、$${Hts}$$を「tはsを持っている」、$${a}$$をアルキビアデスと解釈すると;

$${\forall x(Ha_{Vx})}$$

と、述語$${Hts}$$の項に述語$${Vt}$$が現れてしまう。これは一階の述語の表現形式にはなく、ここでの$${Hts}$$が二階の述語であることを示している。次のように量化の範囲を述語にまで広げることで解決できる;

$${\forall X\forall x((Vx\to Xx)\to Xa)}$$

xの対象領域をギリシア人として、「どんな述語Xに関しても、どのギリシア人xに関しても、(xは)偉大なギリシア人のもつ美徳ならば、Xという性質をもつ。もしそうならば、アルキビアデスはそのような性質をもつ」

このようにして3階の述語(述語の述語の述語)、4階の述語と高階述語を生み出せるが、二階の述語より上はふつうの日常言語には現れないので、専門的な論理学や数学の話になっていく。

ただ、論理学に高階の述語を組み込めるようになったのも記号論理学の進歩である。(ただしこれはあの有名なラッセルのパラドックスを招いてしまった)

Ⅰ.Ⅱ.より記号論理学は多項述語を扱えるようになり、また高階の述語を扱うことに成功したといえる

アリストテレス論理学は「誤り」ではない

アリストテレスの伝統論理学はたしかにいくつかの不足を抱えている。しかしその反面、伝統論理学における三段論法の構造はそのまま記号論理学でカバー可能であり、すなわちそれは伝統論理学の三段論法が正しいことを証明している。

しかも、記号論理学は純粋に集合論の立場から構成されたものなので、数学的に証明されている

数学的に証明されることの喜ばしさは誰が見ても納得できるという点にあると思う。数学的表記の理解が難しいという難点こそあれ基本的に解釈が揺れるようなことは起こりにくい*⁴

いわば、アリストテレスを乗り越えたとは、記号論理学が伝統論理学を拡張したということなのだ。論理学の歴史を紹介する際、アリストテレスはただ過去の存在であるかのように書かれることが多く、それは「伝統論理学は間違っている」という誤解を与えかねないとも思う。

次回の記事で記号論理学のもつ側面を深掘りして本考察を終わりたい。



脚注

*1;アリストテレスも量化については気づいていた。というよりこの量化という考え方を生み出したのこそアリストテレスと言っても良い。アリストテレスの量化子は4つの組み合わせでできており。その4つとは;

A全称肯定「全ての…は~である」      
E全焼否定「全ての…が~というわけではない」
I特殊肯定「ある~である…が存在する」
O特殊否定「~である…は存在しない」

である。ただしこれらの量化は本稿で扱ったような多項述語を扱うのには適しておらず、未完成であった。

*2;二階の述語は日常言語の範囲で説明しようとするとどうしても煩雑になり要領を得ない。正直私の理解も曖昧なこともあり日本語としてあっているかも怪しい。詳しく理解するためにはどうしても集合論の色合いを出すしか無い。
まず$${P\to Q}$$は$${P\subseteq Q}$$、すなわち、$${PはQの真部分集合}$$だ。また$${Pa}$$は$${a\in P}$$なので、$${aはPの要素}$$。
これらより、$${\forall X\forall x((Vx\to Xx)\to Xa)}$$は$${V\to X}$$に注目すれば、$${V\subseteq X}$$、この$${X}$$は$${\forall X}$$という普遍量化に束縛されている述語なので、$${X}$$はどんな述語でもあり得るが、ここでは「$${V}$$という述語を部分集合にもつ集合」と定義される。
ここで実際に「…は偉大なギリシア人に必要な美徳である」という述語について考える。古代ギリシアにおいて美徳とは確かに複数の性質があった(知恵、勇気、節制、正義など)。したがって$${Vx\to Xx}$$は,すべてのギリシア人$${x}$$について、$${x}$$はそれら複数の美徳(知,勇,節,正…)すべてであるという性質$${X}$$を持つようなギリシア人である。
そしてそのような人こそ$${a}$$(アルキビアデス)ということが言いたいので、$${Xa}$$、すなわち$${a\in X}$$.
(なお$${\subseteq}$$も$${\in}$$も集合論においてはほとんど同じ意味である。述語はわかりやすく集合であるが、集合の要素も集合というのは集合論をやるまでピンと来づらかったため要素とした。)

*3;高階述語でみたように日常言語において二階以上の述語が出てくるのは相当特殊なケースである。したがって、高階述語論理は明確に記号論理学の強みではあるのだがこれを伝統論理学のもつ困難といってしまっていいかは少し悩ましいところだ。

*4;なお論理学とおなじく集合論に裏打ちされた数学基礎論ではこの解釈をめぐりゆらぎに揺らいだ。
根本まで突き詰めると完全に揺らぎようのない基盤に打ち立てられた学問というものは存在しないのかもしれない。

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