【読書雑記】年森瑛『N/A』

※本稿は、『文學界5月号』掲載の年森瑛『N/A』についての読書メモ、感想を書いたものです。表題の作品をご覧になっておらず、これから読むつもりの方にとってはネタバレになってしまうことと思われますので、ご注意ください。                         



これは、この身体は、「わたし」のものだから。「わたし」じゃないものは何もいらない。

 女子校に通うまどかがこのように強く思っているのは、「わたし」の身体を「わたし」じゃなくさせる何かが押し付けられていると感じているからだ。

 つい先月までNHKで放送されていたドラマ『恋せぬふたり』では、これまで恋愛にもセックスにも関心が持てない自分に違和感をもっていた女性が、自分の似た境遇の人が綴ったブログ、そしてそこに書かれていた「アロマアセク」(アロマンティック、アセクシュアル)という言葉と出会ったことで、自身のあり方を肯定できるようになっていくことが描かれていた。

 他方でまどかは、そうしたラベリングやカテゴライズに関わる言葉に徹底して違和感を抱いている。言い方を換えれば、まどかはそうした言葉のなかに自らの定位置を見出せない。

 まどかは股から血が流れるというそのことが嫌で、学校で配られた「保健だより」の注意書きを逆手に取り、わざと過度なダイエットをすることによって生理をとめる。ダイエットは生理をとめるための手段であって目的ではないのだが、そんなまどかには、「拒食症」というレッテルが貼られ、母親からはまどかが気を悪くしないよう直截的ではないよう配慮された心配の言葉が、保健医からは女性の社会的抑圧と自分らしくあること(要するに多少体重があってもいいのだということを言いたいのだろう)を意義を語られ、励ましの言葉がかけられる。

 年末に家族親戚が揃った場では、まどかの祖母が、今年まどかが受験生であるのに受験について詳しく知らず、仕事があるからという理由で娘のことを妻に任せきりにしているまどかの父に食って掛かる気が強い娘(まどかの叔母)に対して、「女の子だっていうのに」と息子の肩を持つ。そんな祖母であるが、孫であるまどかのことを案じて「女の子なんだから、体冷やしちゃだめよ」と口にするとき、まどかはまどかの身体性とは関係なしに大切にされる何かとして、自分が自分から離れていくような感覚を覚える。

 また、まどかは他者との関係についても違和感を持っている。まどかにとっては、「かけがえのない他人」という独自の関係性が特別な意味を持っている。まどかが想像しているのは、絵本に出てくる「ぐりとぐら」や「がまくんとかえるくん」のような二人組で、「ホットケーキを食べたりおてがみを送るような普遍的なことをしていても世界がきらめいて見えるような、他の人では代替不可能な関係」のことである。世間一般に普及している、恋愛とも、友人とも、その延長線とも異なるような関係をまどかは志向していて、それに伴う違和感をまどかはこの言葉によって表しているようだ。

 そうした「かけがえのない他人」との関係を模索するため、あるいはどこかでそんなものは無いと諦めている自分を納得させるため、まどかは「うみちゃん」というまどかの学校へ教育実習生としてやってきた女性と交際している。正確には、「試しに付き合って」いる。

 しかし、ある日まどかの友人である翼沙(つばさ)から、うみちゃんのSNS(Twitter)アカウントの存在を聞かされる。そのアカウントでは、「LGBTフレンドリー」の物件の検索結果が0件であったことを示すスクリーンショットが、誰かがはじめた署名運動を肯定し、励ますような言葉が、パートナー(まどかのこと)に関するつぶやきが投稿されていた。そしてそれらのつぶやきのひとつひとつが、いいねを押され、リツイートされている。「かけがえのない他人」を求めて、うみちゃんと試験的に交際していただけのまどかは、うみちゃんのツイートを通して、また、SNSの機能によって、うみちゃんのフォロワーが共感を寄せるような、うみちゃんと同じ性的マイノリティの一人にされてしまったと感じる。そして、このことをまどかに伝えた翼沙は翼沙で、いかにも前もって話す内容・伝え方を準備してきたような話しぶりであり、いまや同性と交際している人となったまどかに対して配慮した言葉を紡ごうとしているように映る。それは翼沙自身の言葉ではなく、プログラムされ、インストールされた機械的な言葉としてまどかには感じられる。

 これらまどかに投げかけられる言葉は、まどかが「丸っこくてやさしい言葉」と呼ぶ、他者を傷つけないよう、責めないように細心の注意と配慮をもって磨かれた言葉であり、また、世間一般が広く使っているからという理由で正当性が与えられた、すっかり手垢が染み付いた言葉である。

 こうした言葉が与えられることの背後には、力の関係が働いている。ある種の人を健康でない、抑圧されている、同性の人と交際しているといったようなマイナー性へとラベリングし、カテゴライズする力が。それは、カテゴライズされるその人自身にはどうしようもない形で働きかけられる。生まれたばかりの無力の赤ん坊に対して、医師がそれを男/女に分け、それに基づき親が文字通り名付けることは、その好例だろう。それゆえに、あるラベリングやカテゴライズがまどかの身体を飛び越えて、より広大でより高いところにある文脈を流れ、貼り付けられる。そして、これらの言葉が、まどかの意志に反してまどかの輪郭を形づくり、まどかを組み上げていく。

 他者の言葉によるカテゴライズ、ラベリングに抗するということは、他者が充てがった言葉ではなく、徹底的に自己に属する(存する)言葉を模索することへと向かう。そこで「まどか」にとって拠り所となるのは、自ら身体である。それは、その身体を他者の言葉に汚されることなく自分の手でしっかりと支持すること、身体を肯定することにつながる。まどかの友人であるオジロが話す、「うちらも全身、面白くなりたい」、「女全員の全身が面白い方がいい」という言葉は痛快だ。

 一方で、自分自身の身体を肯定すること、自分自身にこだわることを突き詰めることで万事解決、というわけにはいかないとも思われる。徹底的に自らに向き合おうとする態度は、突き詰めると自閉的になっていくだろう。ここに至って、まどかが求めていた「かけがえのない他人」は、究極的に自分が見る自分(他者としての自分)へと向かうという、自閉的な危険性を帯びてくるのではないだろうか。

 SNS上でまどかとうみちゃんの交際を応援する善意のフォロワーの様子を目の当たりにしたまどかにとっては、同じ『少数派』でも少数ながら見方がいて、誰かとつながることができ、派閥をつくれたうみちゃんとそのフォロワーが、少数派というには十分すぎるほど大きいものに見える。まどかの求める「かけがえのない他者」は、まどかとうみちゃんの関係がその様になるとした場合、まどかとうみちゃんの2人のなかで完結する関係性なのである。だから、「かけがえのない他者」はある意味で排他性を伴うものでもある(この点、まどかは恋愛を独占や嫉妬を伴う関係として退けているのだが、自己と他者の関係を他の関係と線引する意味では、似たような陥穽にはまる可能性があると言えないだろうか)。

 まどかにとって言葉は身体(物体)と結び付けられたもので、それはまどかの言葉を借りれば、「誰にも褒められない、承認されない、推奨されない言葉」なのだという。そして、まどかはそうした言葉を、「うみちゃんの身体をひるませるためだけの力を持った言葉」を手繰り寄せ、うみちゃんとの関係を、うみちゃんにとっては唐突に、解消する。少数派としてのまどかは、こうしてさらなる少数派へと自らが押し込めているしまう。『N/A』はこうしたこともぬかりなく描いているように思う。

 用意された言葉やある言葉の環境へ違和感を持ち、それに抗することは、言葉という他者ではなく、自分自身の物質的な拠り所である身体としての自己へと向かっていくことなのかもしれない。自分という身体を拠点とすること、自分という物体にこだわりをもつこと、それは言ってみれば自分の身体を肯定することなのかもしれない、それは一面では必要なことだと私は勝手に納得させられた(先に上げたオジロの言葉が反響する)。

 だがそこに、用意された、準備万端な言葉は未だ存在していない。だから一方でそれは苦しいことだ。ゆえにまどかは違和感を抱きながらもがいているのだろう。まどかはこうした違和感を最後まで言葉として、セリフとして発していない。それはいまだ言葉がないから。ただ、身体があるのみだからではないだろうか。

 元も子もないかもしれないが、言葉はそのはじめからして既に他者だ。他人に寄り掛かることはラクである。同じように、言葉という他者に身を委ねるのはラクではある。祖父が病に臥したオジロを襲う不安に対してまどかは、誰にでも言えるような丸っこくてやさしい言葉をかけては駄目で、オジロを気遣うまどかにしか言えない言葉をかけようと模索するのだが、それでもまどかのなかに浮かんでくるのは「どこかで聞いたことのある定型文のような言葉ばかり」なのだ。使い込まれた他者としての言葉。よく馴染んだ言葉である。

 だからおそらく、言葉と自分の身体は決してどちらか一方ではない。そうだとすると、世界はただおしゃべりなだけか、全員が沈黙する場でしかないはずだから。でも、どちらもぴったりと重なり合うわけではない。重なり合うとしたら、それは大げさに言ってしまえば、この世界の真理であって、実際のところ未だ到達していないし、これからも絶対に到達することはないだろうからである。つまり、この作品が提示しているのは、言葉と身体どちらか一方と、重なり合いの二者択一ではない。そのズレをただ描くことである。そのあいだのグラデーションのなかで浮遊するものは無限大である。そのなかにあって、きらめくものがある。『N/A』において、特にラストにかけて語られる言葉にはそうした開かれたきらめきが描かれていると感じた。

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