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それは、自分の老後を心配したからである。


ウラジーミル・プーチン、1952年10月7日, ロシアのサンクト・ペテルブルグ生まれ。かつて存在したロシアを中心とした大国、ソビエト社会主義共和国連邦、略称ソ連の国家保安委員会(KGB)で対外情報部員として東独で勤務。ソ連崩壊を機に16年間働いたKGBを辞職。1994年頃から政治に関わるようになる。

プーチンが大統領に就任した頃の英国の報道番組によると、ソ連崩壊で共産党系の役人は多くが職を失った。崩壊後のロシアの混乱で、これらの人々は「共産主義時代の昔は良かった」派となった。一時はタクシーの運転手をして糧を得ていたプーチンが、これらの人々の一人であった事は想像に難くない。

1996年にモスクワに移り、ボリス・エリツィン政権に参加した。やがてエリツィンの側近となり、伸し上がって行く。従って、プーチンを知るには、ある意味反面教師として大きな影響を与えた、エリツィンを知る必要がある。

ボリス・ニコラエヴィチ・エリツィンは、ロシア連邦の初代大統領(1991年 - 1999年)である。米国に対峙していた東の大国ソ連崩壊と言うどさくさの中で、豪腕を発揮して政治的な知名度を得て、ロシアの民主的選挙(この時だけかも)により選ばれた、最初の大統領になった。

しかし、縁故間系コネ重視の人事や、民主的選挙で選ばれたにも関わらず、独裁的な政権運営など民主政治とは程遠い政治を行なった。個人としても、その酒癖の悪さは有名で、米国では泥酔してパンツいっちょでタクシーに乗ろうとしたり、キルギスタンのアスカル・アカエフ大統領の頭を酔って、楽器で叩いた話は有名である。

混乱時の豪腕以外は無能なエリツィンは、ロシアを経済的大混乱に陥れ、親族と財閥族で周りを固めた政権は、癒着、公共財産の私物化、政治の腐敗を状態化させてしまった(ソ連時代と同じか?)。エリツィン自身も様々な不正や公金横領の話が後を絶たない。しかし、これらを巧みに揉み消してきたのがプーチンと言われる。

エリツィンは、当時首相までに登り詰めていたプーチンを後継者に渋々指名した。そして、プーチンは大統領になると、最初の大統領令を出して、「エリツィンを生涯に渡って刑事訴追から免責する」とした。何をやいわんやである。プーチンはチェックメイトを既にしていたのだ。

エリツィンは、在職の終盤から体調不安(暴飲のせい?)で、公務もままならない時が度々有り、横領やその他不正の追求に苦慮し、その尻拭いをするプーチン首相だのみの日々を送った。そして2007年4月23日、長年の心臓疾患による多臓器不全によりモスクワの病院で死去した。76歳であった。

エリツィンが最後まで面子を保って死ねたのは、プーチンがいたからである。しかし、プーチンにはプーチンがいない。切れる人材を周りに置かないので、プーチンの尻拭いをする者はいない。更に、プーチンには娘が二人いるが男の子はいない。子供を自分の後釜に据えるのは難しい状況だ。次期大統領が自分を保護するかどうかは分からない。何故なら、プーチンは取り巻きを信用しないからだ。

プーチンは、権力を失った老後にあらゆる刑事訴追から逃れる事、特に在職中の敵対勢力からの追求を逃れる事に、腐心しているはずだ。その解決策は、自分の老後は勿論、そして死後も権威が失墜しないように、揺るぎない偉大な英雄になる事だ。その為には「プーチンは、ロシアをかつての大国ソ連のように、偉大な国にした」と国民に未来永劫言わせる必要がある。

それが、クリミア半島の騙し討的占領と、ウクライナ奪取の為の軍事侵攻である。帝政ロシア時代からの悲願、不凍結港を手に入れる事、その為の領土拡張路線に合致した、今回のウクライナへの軍事侵略は、英雄となって老後の安全と死後も名誉不可侵を確固たるものにする一手なのだ。

昨年テレビで放映された、オリンピックの開会式の様なロシアの大喧伝大会プロパガンダで、軍服正装したハリウッド女優並の美人兵士達や、凛々しい若い兵士達に混じり、観客と共に「露西亜」を連呼するプーチンの昂揚こうようした赤ら顔には、遠くの黒雲を払拭して「これでいける、選択は正しい」と自らを鼓舞する偽りの色があった。

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