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なきがら


 微睡みの手前で寝返りを繰りかえす。どうにも居心地の悪いベッド。悪夢に目を覚ました明け方はいつも、遠くに蝉の声が聴こえる。
あなたがいなくなってからもう何度目の夏だろう。

病室の匂いと無機質な白さ。生命を繋ぐ管。苦痛に歪むあなたの顔が今でも鮮明に思い浮かぶ。
「“人間”は疲れた。もうやりたくない。」
汗ばむ喉元と弱音。痩せた手を握る私の、あまりにも無力な祈り。夢に見るのはそんな場面ばかりだ。


 この部屋に一人で暮らすことにも慣れた。ベッドサイドの小さなテーブルから、寝ぼけながらイヤホンを手繰り寄せる。おぼつかない指で再生するのはあなたの遺した歌声。

抱きしめた温もり。眼差しの優しさ。あたたかな笑い声の記憶に包まれる。目を閉じれば彩度を増し、そして手を伸ばせばついに触れられそうなくらい。
そうこうしている間に眠りへ落ちる。
八月の半ば、そんな日々が続いていた。


 またか。今朝もまたあの夢を見る。この先もずっと続いたらなんて、途方に暮れる午前四時半。
ーーカナカナカナ、、、
切なく掠れた声が、空気に溶けていく。ここ最近鳴いていたのはヒグラシだったのか。どうやら近くにとまっているらしい。
いつもよりハッキリと聴こえてくるその声に、脳味噌を委ねる。


 遠い夏の日。悲しい夢に目を覚ました私は、寝付けない夜更けに独りだった。隣で眠るあなたの寝顔を眺めていると、その瞼がゆっくり開く。

「どうしたの。」
呼吸が胸でつっかえる。なんだかうまく答えられずにいる私を、優しい腕が言葉少なに包んだ。
クーラーの効いた部屋はまだ暗い。表情までは見えないけれど、あなたの微笑みを感じている。

「ありがとう。」
薄っぺらな毛布をかけ直してくれる手に、この手をそっと重ねた。


 カーテンの隙間から射し込む真夏の光が、私を叩き起こす。
いつの間に眠っていたんだろう。回想だったのか夢だったのか、曖昧だけれど。久しぶりに穏やかな眠りだった。染み付いていた疲労や倦怠感がスッと抜けたみたいだ。

顔を洗ってご飯を食べよう。うーんと伸びをすれば、またいつもの一日が始まる。あなたがいなくなっても時間は進む。世界も人波も足を止めない。悲しいほど変わらないその流れに、身を任せて過ごしてきた。


 くたびれたカーテンを開ける腕は、毎日着実に日焼けしていた。
今日も暑くなるなあ。強い日差しに細めた視界。その片隅にうつったのは、仰向けに転がる蝉だった。
息絶えているのだろうか。風に揺らされる小さな身体は、無力に灼かれていた。

サンダルをつっかけてベランダに出る。早くも汗ばみ始めた手で引っ張り出した植木鉢。もう何年も空き家だ。
いつだったか、あなたがカスミソウを育てていたっけ。綺麗に咲かせられないままに枯らしてしまってね。
ぼんやりと思い出しながら、亡骸に土をかけていく。

ーーおやすみ。
なぜだろう。あなたの声がする。
頬をつたう塩味がその土を濡らした。

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