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「贈与」を見つける

今年は124年ぶりの節分ですね、2/2。


去年の末にかけて大変素晴らしい著書を読みましたので、今回も2冊同時に力尽くでレビューしていきたく候。


まずこちら2冊を手に取ったそもそもの理由ですが、

雑誌GINZAの編集者に通称koさんという方がいらっしゃいます。
koさんのことは、もともと彼女のファッションが好きでインスタもフォローしてチェックしていました。
見る人をハッピーにするそのファッションセンスもさることながら、彼女はかなりの読書家であるらしいことを最近知りました。
ストーリーズには読了後のオススメ本が紹介されるので、こちらも必ず✔️するようになりました。するとどうでしょう、ko様がオススメする本が私にはどれも面白くて堪らないのです。
一番最初に買った、ko様オススメ本は「次世代ガバメントー小さくて大きい政府のつくり方」(若林恵)です。


 
これはもう本というより、教科書という言葉の方が近い気がする・・・

それぐらいあんぽんたんな私には勉強になりかつ
小中高一貫してキライな科目が社会だった私にも
「オモチロイ!!!」と思わせてくれる一冊なのでした。


何でこの話したかというと、「あれ?なんかこの2冊のチョイス、めっちゃ見たことある?」と思う方いらっしゃるかもと思ったので。


そして正に思った方、正解です。



以上、ながすぎる前座でした。

(以下、言わずもがなネタバレです。)


1.「世界は贈与でできている」

「贈与」って、凄く抽象的な言葉だなって思われるかも知れない。

所謂「お金で買えないもの」。

時間やサービス、今やなんでもお金でやり取りされる時代に、金銭の授受を伴わず、伴ったとしても、その見返りは求められない。「どうしてそれをくれるのか?」と問うてみてもハッキリした答えは得られない。非合理的で、曖昧模糊として、ふはふはしたもの。

それが「贈与」。

この本の最大の特徴は、そんな「贈与」の「与え方」ではなく、「受け取り方」に論点が置かれていることだと思う。

「与え方」ではなく、「受け取り方」について考えるというのは、もはや私達には「贈与」が既に与えられている・今後与えられることを前提にしている。

どういうことだろう?

確かに「贈与」は私達の周りにたくさん存在している。だからといって、「全てのものに感謝しましょう」とかそんな漠然としたウスッペラな話をしようというのではない。そもそも「贈与」って、どうやらそんなにカンタンに見つけられるものじゃない。「平凡な日々の中にこそ幸せはある」というフレーズは聞いたことがあるけれど、じゃあ皆が皆「あ、今幸せだな」「今日は何回良いことがあった」と逐一その幸せ(贈与)に気が付けているだろうか?やっぱり意識しないと気が付けないのが現状じゃないだろうか。

「贈与」が見える人と見えない人がいる。その違いは何であるか。

見えるようになるために求められる力とは。

また、本書はただ幸福論を説くものというのでもない。

個人的な意見かもしれないが、「贈与」は必ずしもハッピーなものばかりではない。精神的苦痛や後悔を伴う場合もあるからだ。

真に「贈与を受け取る」ということは、何かに「気が付く」ということ。非常に見つけにくいもの。そしてやっと見つかった時、それは間違いなく誰かが送った「愛」なのだが、受け取り方を間違えれば「呪い」になってしまったり、また、受け取りが遅すぎた時には大きな悲しみになる。実際読んだ私は、既に届いていた「贈与」に気が付き、また今までそれに気が付かなかった事実に絶望した。


大事なのは、「贈与」は誰かから送られて受け取ってそれで終わりではないということ。

受取人は次の「贈与者」になる。

誰かに新たなパスを出したい、そんな衝動をもたらすものが、「贈与」には含まれているのだ。

「不当に愛されてしまった」

これは文中の言葉だ。衝撃的でなんだか悲しく響くかもしれないが、これほど贈与を的確に表現していることばは無いと思ったし、悲しい供述だけで終わらせない、ここから何か動き出しそうな静かな情動を孕んでいる気がした。





2.「日本の反知性主義」

まえがき曰く、「私がその見識を高く評価する書き手の方々に寄稿を依頼して編んだアンソロジー」。

「私」というのは内田樹さんです。

先述「世界は贈与でできている」中でも名前や彼の引用文が度々登場していた方だ。


「反知性主義」って一体なんだろう。


「贈与」に似て、非常に定義し辛い代物のようだ。

私はアホのことかなっと思ったから、寧ろまったく逆で驚いた。

内田樹さんが引用しているロラン・バルトの言葉によると、

”無知とは知識の欠如ではなく、知識に飽和されているせいで未知のものを受け容れることができなくなった状態を言う。”

だそうな。

10名の見識高い書き手が各々述べた「反知性主義」から私が理解したことは、

「反知性主義」とは、一元的なものの見方しか出来ず、対立する思想を認めず、想像力が欠如した人/現象のこと。

(なんだか10人の名だたる方々の総括みたいで恐れ多いが全くの個人的感想です。)

もうこれだけで「反知性主義」というものが「良くないもの」という印象を与えるには十分だが、何故「反知性主義」について語られる必要があるのだろう?

本書の中で私が最も衝撃を受けた歴史的出来事がある。

フランス革命勃発後、特権階級に陣取る人々は一体何が革命を起こさせたのか、原因追求に明け暮れた。ああでもないこうでもないと繰り広げられるうちに、一冊の本が出版される。エドゥアール・ドリュモン著「ユダヤ的フランス」だ。エドゥアールは著書の中で、フランス革命はユダヤ人の策略だったと嘯く。非常に短絡的思考であるにも拘らず、この考察は当時の人々を納得させ、大ベストセラーになった。こうして広まった彼の思想は、結果的にホロコーストの一因になってしまったというのだ。

このことについて内田樹さんは「おそらく人類史上最悪の『反知性主義』の事例としてよいだろう。」と述べているが、本当にその通りだと思った。

歴史に詳しい人からすれば有名な話なのかもしれないが、知らなかった私はこの部分を読んで戦慄した。当時の人々に対してもそうだが、全く他人事でないということに。

冷静に考えればおかしなこと、渦中にいるとそれに気が付けないということは誰の身にも起こりうることではないだろうか。

上記の「ユダヤ的フランス」事件を、フィクション映画を観るかのような気持ちで眺めていられるだろうか。

物事を深く考えたり多角的に見たりすることをしない人々はいつの時代も一定数存在し、何であれば大多数がそうで、何であれば学者や国を引っ張っていく人々がそうである場合が多いという。

分かりやすい・理解しやすい報道やニュースに跳びつき、そこに言及されている事以上は追究しない。「反知性主義」というのは扇動されやすく、だからこそ大きなムーブメントを巻き起こす可能性が高い。自分がそれに加担しないと言い切れる自信は、残念ながら私には持てなかった。


〈おわりに〉

短く語ろうとすると誤解を招きそうで、また、忠実に詳細に述べようとすると終わりが見えず、まとめ上げるのに非常に難儀なテーマだった。

それでも、やっぱりこうして右往左往してまとめたことで何度も何度も考える機会になり良かったなと思う。

ひとつ追加で本のネタバレをするという荒業で今回のネバーエンディングブックレビューを締めくくろうと思うが、

「贈与」を受け取るのに必要な力の一つは「想像力」である。

しかしこれは、「反知性主義」にならないためにも大切な力だと思う。

「想像の世界」というのはSFの世界や眠っている時に見る夢の中の世界に近いものがあって、それは現実でない、または目に見えないものの可能性を考えるて初めて立ち上がる世界だ。

目に見えないものの可能性を考えるということは、自分の考えが絶対ではないと思うこと、自分の常識を疑うということである。

今回読了した2冊に共通して感じたのは、想像力の大切さだった。

こう片付けてしまうと非常に単純に聞こえてしまいそうなのでもう少し悪足掻きをさせてもらうと、

想像力っていざ使おうとすると使い方が分からなかったり、悪い方向に暴走してしまったり、疲れてしまったりする。そうしているうちに、想像力を使うことの大切さを忘れてしまって「想像力って必要?」などと、合理的な答えを求めてしまうのではないだろか。

そこまで辿り着いてしまった時に「想像力の大切さ」を改めて知ることは必要なことだと思う。ましてやこのような良書に濾過されながらのことだから、読了したあとの想像力は、「これから自分はどう生きていこう?」と考える”生命力”になる、と言ってしまうと言いすぎだろうか。

悪足掻きは以上とする。


p.s. この記事を書いている時に受け取ったnoteからの贈与がとても嬉しかった。ありがとう。








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