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過去の物語が書き換わる - 母編

「みゆきちゃんは、テレビ見なくて何も知らないのね。
もうひとつ、みゆきちゃんが知らないことをお母さんが教えてあげる」

母はそう言って、得意げに最近の世の中のニュースを教えてくれた。

毎週の通話で感じた母からの愛

今日、久々に母から電話があって、1時間半ほど延々と母は話していた。それに耳を傾けて、自分の考えを述べてみたりすると、案外母にも気付きになったりするみたい。

私は子供の頃から、そして家族にはいまでも、感情を素直に表現するのが苦手だ。興味が薄そうな反応をしてしまう。実際に、何か違うことをしながら話を聴いていることも多い。

それでも、少しずつ、母がどのように話しているのか、私に関わってきているのか観察していくと、そこには母からの愛を感じたのだ。何が、というと答えるのが難しい。ただ私には『母が私に無条件の愛を向けている』ということが、浮かび上がってきたのだ。

母は私を愛していないと思っていた

幼少期から私が社会人1年目まで、核家族で、同居する兄弟はおらず、そのうえ両親は不仲。喧嘩が絶えない家族だった。父も母も、目の前の家族に目を向けていなかった。正確には、目を向けるほど苛立ちがこみあげてきていたんだろう。

幼い自分が感じていたのは、両親は自分を見ていない、ということ。見ていなかった訳ではないのだと思うが、自分が注目されていないと感じた記憶の方が残っている。もしくは、そのように捉えるのが都合が良かったのかもしれない。

母は、父と出会う前に別の家族を持っていた時期があり、そのときに2人の娘(以下、姉と称する)がいる。母は海外の出身なので、姉は日本の国籍ではない。

度々母は、母国の良さを語り、それに比べて日本(≒この地域、家、家族での生活)に対する不満を語っているように、私には見えていた。姉とは毎日電話で長話をしていた。

そのときに多分、寂しさや怒りを感じていて、それをどのように表現したらよいのか分からず、「母は私を見ていない」という感覚で物語を作ってきたのだと思う。

物語を変えたのは、間違いなく私だった

社会人1年目の初夏。私ははじめての社会人生活、はじめての1人暮らし。同時に、母は母国に旅立ち、音沙汰なく、1年帰ってこなかった。

毎年1~2回、1ヶ月ほど帰省をしていることはあったが、父にも私にも前触れがなく、いつものように出発し、そして父からの連絡に応対しなかったのだ。(この出発時の様子で、帰ってこないのでは?と察した父のことを、その後、とても繊細で感受性の強い人だったんだなと私は感じた)

1年後に、大きなきっかけがというより、色々と落ち着いて母は帰ってきた。その間、私が父との関わりが変化したという大きな出来事がある。

私が慣れない生活をするなか、父から毎日5~10件の着信があり、大きな声で何か母から聴いていないのか、母に対する不満を語られる日々が続いた。(父は不安だったのだと、後から感じ取れるようになる。その話はまた別の機会に語りたい)

そのストレスから、生まれて初めて、父に意見をした日だった。昔から父に何か言われるのが怖かったこと、いまも毎日がツラいこと、私も何も知らないこと。

この時から父は、自分はそういうつもりではなかったこと、それでも私に対して嫌な気持ちにさせたことに対して申し訳ないこと、そういうことを私に返してくれた。これはこれで、父の不器用な愛だったのかもしれない。

そういったことも含め、母とは私から定期的に電話での関わりを持ち、父に伝えられる範囲で状況を伝え、母はのちに日本に戻ってきたのである。

母は私を愛していた

物語を編み直していきながら、いま思うこと。母は私を愛していなかったわけではない。他の色んな出来事に私への愛が埋もれていたのだと思うし、私も愛を受け取れる状態ではなかった。

月日や経験をお互いに重ねて、いのちが健やかに流れるようになって、愛という感覚を受け取れるようになってきているのかもしれない。

母は正直に、会えなくて寂しいだとか、どこかへ一緒に出掛けたいだとか、そういう表現をする。それは、私もどこかで歩み寄り、受け取れるということを色んなサインで母に伝えていたからかもしれない。

そういう、小さな積み重ねで母と私の繋がりが質感を変えて、現在に至っている。何が理由とか、根拠とかはないのだが、『母は私をはじめから愛していたんだな』と直感として感じるのだ。

母に次会えるのはいつになるだろう。どこかへ一緒に出掛けたい。どうか、これからも前向きに楽しんで、長生きをしてほしいと思った。

March 7, 2021. 20:51@home

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