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光そのものの、愛

なにかをくぐり抜けて、久しぶりになんでもないnoteを書き出してみる。


1年半ほど、noteで綴るのをやめて、substackで表現を連ねてきた。

多いときで週に1回、のんびりなときは月1回。


浮かんできていることはとても多いが、こうして表現することが億劫になっていた。あまりにも多すぎるから、すぐに変化してしまうし、追いつかないような感覚に近い。


こころが望まない抵抗感と、それとはまた違う抵抗感があると思う。

私にとっては、後者はGOのサイン。プロセスワークでいうなら、エッジというものだ。


こうしてまた、モードが変わってきたので、こうして思想をことばで書きたくなってきた。ただ同時に、言葉にしなくても良いものだと思う。

 

変わり続ける自分の考え、スタイルに、そのたびに嬉しさを感じる。


毎日あまりに刻々と変化していくさまを、どうか、その都度のタイミングで目撃されようかと、元妖精さんとしては思うわけである。 


さいきん、しあわせな愛の体験があった。あったし、続いてもいる。

これまでこの世界でのルールだと思ってきた、愛の関係性から解き放たれたなと感じる。

様々な愛が、ルールから解き放たれ、いのちが自然に放流されゆく。


この人と出会えて、だいすきと感じること。

そのものが相当しあわせなことだし、感情を体験する。


実は、エネルギーというものは、光よりも重さがある。

愛のなかでも光タイプと、エネルギータイプがある。

後者は思いやりとか、情念みたいなものだと思っている。


じぶんのベースが、光タイプの愛なのだと理解して、そこに安心して寛いでもいる。

同時に、人間としてはエネルギータイプの愛も発露してみたいと思う。


要はどれも目的ではなく、手段なのだろう。


この、いのちが解き放たれる、というもの。

最近わたしの"いま"の連続の根底にあるもの。

わたしは、"いま"にしか存在しない。


あらためて、いつでも愛より始めている。

愛そのもの、光そのものであり続けている。




昨日収録したYuragi by Chikyu-yueiラジオです。



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