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macurocuo
ひとりでも大丈夫だという環境作り
昨夜はずっと頭の中で言葉が湧いて、寝るのに時間がかかった。今日は眠い。ほどほどに。
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“オランダで一人で過ごしてきた時間、誰かを待ってきた時間に後悔はないけれど、これまでの時間を続けることなく、変化を受け入れて良かったと今は思っている。大きな変化を自分でつくったようにも見えるが、私にとってはやはり「受け入れた」という感覚だ。”
草さんの昨日のnoteが沁みた。私には、ちょっぴり切なくて、なんだかとてもやさしい感じがした。
私はこうやって、リフレクションジャーナルを通じて、ありのままの自分に居場所を置き続けることが、結果として受け入れる感覚なのだと思う。
隠しておきたいこと、目を背けたいもの、言葉にならないもの。そういったものがエッセンスレベルでも表現される。表現され続ける、言われたがっているものが外に出続けていくこと。それが、受け入れる準備でもあるのだろう。
関わる人の制限、ひとりでも大丈夫だという環境作りは、私にも必要かもしれない。一部分だけ、としても。ともすれば、人との営みを大切にしたい感覚も湧いてくる。
関わる人の制限と、ひとりでも大丈夫だという環境作りと、人との営みを大切にすることは共存するものであるはず。自分の意識発達や変容の過程において、周囲に人がいなくなる、という痛み/シャドウのようなものがいるんだろう。受け入れていく過程なのか、ただそこにあることを認知している段階なのか、そこまでは捉えていない。
なんだろうな。根本的な領域で愛を蓄積していく器が小さいのか、燃費が悪いのか、漏れているのか。はたまた、そんなことはそもそも起きていない、認知の歪みなのか。
そんなことを考えながら、2月も草さんの講座を受けることにした。意識発達、変容における世界を見るレンズ変遷。(正確なタイトルは異なるが、ざっくりそのように理解している)
Jan 12, 20201 7:59
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