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流行という海の波

仲の良い喫茶店の店長とか、悩みを聞いてくれるバーのマスターとか、生き方を提言してくれる飲み屋の店主とか、
そういう関係性を手に入れている人に憧れながら、そうなれないと確信している。

街の中華屋とか、狭い定食屋とか、苦い珈琲屋とか、色褪せた蕎麦屋とか、
そういうところに行く人に憧れながら、そうなれないと確信している。

下北沢の小劇場とか、高円寺の古着屋とか、小さなライブハウス、行き慣れた駄菓子屋、床の汚れたラーメン屋、神保町の古本屋、BOOKOFF、ミニシアター、油絵の具、ものづくり
そういうところで安心する人に憧れながら、そうなれないと確信している。


そういうものに傾倒し依存する彼らは、世間の流行りの波を抜けて自分だけの好きなものを見つけたようで、ひどく羨ましい。いつも美しい。彼らは流行りを馬鹿にしながら、自分は波に乗れなかった弱者だと謳う。誰の苦しみも比べられないとして、僕の苦しみはなんと言うんだろう。波に乗れたサーファーに見えるかい?波に流される浮浪者に見えるかい?浮き輪はなぜかいつまでも浜辺に辿り着かない。泳いでも泳いでも辿り着かない。浜辺が美しいのに。

彼らに憧れて真似をしてみる僕が1番滑稽のようで恥ずかしい。いつもできないことを痛感するだけだ。サーフィンの練習の方が圧倒的に簡単で、ダサい。サーフィンがかっこよかったら悩まずに済んだのに。僕は自分のその浅はかさ、深みのなさがバレないか心配なんだよ。浜辺にいる顔をしてみたり、波に乗っている顔をしてみたり。そういう自分の器用さがもたらす中途半端が憎らしいんだ。なんで波に乗れちゃうんだろう。

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