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グリーフとはZero Point

私は、夫と死別してから変な心の癖がついたことに気づいた。それは、夫が亡くなった日を起点として、「今の自分」に向かって、ほんの数秒の間「ざーっ」と過去から今を振り返るという癖。洗顔をして顔を拭いたり、食器を洗いながらちょっと手を止めたりした時、本当に数秒のことなのだが無意識に「それ」をやっている時がある。何と言うか、走馬灯のようにイメージが向こうから自然にやってくる感覚だ。意識して「それ」をやってみようとすると、なぜかできない、、、。今回、初めてこの感覚を言葉に置き換えてみたら、やはり私の語彙力では上手く表現できない。とにかく、時々この癖を繰り返している。

これって、もしかすると、やはり死別した時が私のゼロポイントであることを意味しているのだろうか。その前の人生とその後の人生が別の次元のものだから、死別した時点が私の時空の起点となっている。そして「今の自分」を確認する一つの物差しのようなツールとなっている。死別だけでなく、大きな体験した人ならきっと同じような感覚があるのかも知れない。大きな災害に巻き込まれて大切な家を失くしたり、離別したり、失業したり、、、。だから、グリーフとはZERO POINTなんだ。生まれたという起点が一生無くならないのと同じように「死別」という起点は一生なくならない。そこから、全てが始まったと言っても良い。そう、全てを無くしたところから全てが始まった。

正直なところ、最初の頃はグリーフはいつか無くなるものだと信じていた。瞑想に取り組んだのも、このグリーフという感情を完全に洗い流せばいつか心は綺麗に浄化されそこから新しい人生が始まると最初は信じていたからかも。確かに瞑想には浄化という作用はあると思う。でも、瞑想は私にとってはグリーフを洗い流して消し去るものではなかった。グリーフとともに生きる覚悟をくれたものだった。生まれた事実がなくならないのと同じで、グリーフとは「死別前とは違う人生を私にもたらした」という事実であり、洗い流されるものではないという実感が今はある。今の私があるのは、ある意味では全てを無くしたから。

ここまで書いて、もう一つ気づきがあった。「全てを無くした私」という言葉に対して、ZERO POINTに近かった頃はそこに「悲しみ」「怒り」「落胆」「孤独」など沢山の負の辛い感情が乗っかってきて、とても重みがかかっていた。でも、16年間という時を早送りしてみると今の私は、ZERO POINTからコツコツと築き上げてきた発見、生きているという実感、人や自然との繋がりや豊かさを感じられる。無くしたものと得たもののバランスがとれているのだろうか。かつて全てを無くした私を愛おしく感じている自分がいる。ZERO POINTにポツンといる私に向かって言ってあげたくなる。「You will be OK.  You will survive.  You are not alone.」



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