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「能動的な悲しむ営み」とは

はじまりの始まり」から引き続き、Thomas Attigの悲嘆の捉え方をもう少し詳しくみていきたい。とても大切なグリーフケアのあり方を示唆していると考えるからだ。

1.   医学的アナロジーは的外れ

アティッグは、喪失を体験した人には「その人全体で悲しむ」プロセスがあるという。しかし、そのプロセスに対して「悲嘆を癒す」や「悲嘆から回復する」という表現が一般的に使われることに対しては強く異議を唱えている。彼は、グリーフケアの専門家ですら悲しむ営みについて「症状」「機能的精神障害」「癒える」「回復」といった医学的アナロジーを用いており、専門家たちが「私たちが悲しむのには何かおかしいところ、あるいは異常なところがある」と示唆していると批判する。

また、多くの人が悲しみは「最後には晴れる霧ででもあるかのように」ある段階(=局面)が訪れ、癒しは自然にもたらされ、その時を待っていれば世界は元に戻るであろうと信じている。アティッグは、こららの間違った理解が受け身的な悲しみ方を助長していると指摘する。この考え方は、悲しむ営みは本質的に能動的で、対処には本人の積極的な努力が必要であるという点を見落とさせるという。また、それは悲嘆の体験についての個別性、個性や自己理解を歪め、悲嘆者の無力感を強化しかねないとアティッグは強く警告している。

つまり、喪失体験に対して強い悲嘆に遭遇した時、私たちはその悲嘆に対してほとんど為す術はないと当事者も周りも捉えて途方にくれてしまうのだ。故人を思い出させる物や場所を避けるなどの回避行動をとったり、ワーカホリックになって思い出したり悲しんだりすることに蓋をしようとする人もいる。周囲の人もまるで腫れものを触るかのように故人の話題を避けるようになる。当事者は悲しみが晴れることを切望しながらも為す術が分からず、ただ辛い時間だけが過ぎていく。アティッグの著書が日本語に訳されて20年が経つ現在も、私たちは「悲嘆に対して無力である」という考え方は、あまり大きく転換していないのではなかろうか。アティッグが指摘する通り、悲嘆について私たちは全く違う考え方を必要としている。

アティッグは、言う。

死別には選択の余地は、ほとんど、あるいは、まったくないが、悲しむ営みは選択の余地で満ちている

私たちは、死別の衝撃のために一時期的には激しい拒否感、混乱と絶望の淵に追い込まれ生活は麻痺してしまうかも知れない。しかし、私たちにはこれらの困難や試練に立ち向かう柔軟な強さも持ち合わせているのもまた事実ではないだろうか。

2.  悲嘆は「世界と自己を学び直す機会」と捉える

アティッグは別の悲嘆の捉え方として、受け身的とは対照的な「能動的な悲しむ営み」を提唱する。能動的、つまり積極的に悲しむ営みとして、「世界を学び直す」ことを挙げる。

彼は、「私たちは、人間としての存在全体で学び直しに取り組んで、喪失によって一変した世界での生き方、ふるまい方を学ぶ。私たちの生活のあらゆる側面をつくり直す」ことが重要であると述べる。悲しむことは、今まで自分が担っていた役割や人間関係、そして自分の能力の限界と信じてきたことを一つ一つ問い直す機会になるのである。それでは、自分を問い直すこととは何か。それは、喪失により、決して元に戻ることはない自分自身のあり方を一つ一つ見直し作り直すことである。故人がいた時と同じ世界や自分にはもう戻れないという気づきは、ことのほか辛いものだ。しかし、「辛い」こととその作業が「出来ない」こととは、別のことではなかろうか。つまり、以前とは違う世界で自分の存在の意義を問い直すのは辛い作業ではあるが、それでも自己を学び直すことは重要なグリーフワークなのだ。

私たちは、死別によってもたらされる麻痺状態を乗り越え、自分は無力ではないと信じ、自分の世界を学び直し、完全さを取り戻すべく「自我の再統合」という課題に取り組まなければならないのだ。アティッグは、自己を学び直すことで、全人的つまりスピリチュアルな変容さえ獲得できること示唆している。

家族、友人、広い社会とのつながりのなかで、ふたたび、自分自身が輝き、貢献をし、評価され、意味と目的を持って生きるのを経験する。神、あるいは宇宙をつかさどる大きな力とのつながりのなかで、受容、帰属意識、許し、安らぎ、慰め、究極の意味と目的といったことを捜し求める。さまざまなつながりのなかで変化を遂げながら、私たちは、自分がふたたび完全になるのを経験する。

この「学び直し」という立場からグリーフワークを眺めると、それは喪失という瓦礫の中から宝石を見つけだすような作業であると気づかされる。そこには、故人を過去に葬り去るのではなく、むしろ積極的に故人との絆を結び直すという作業も含まれる。自分の新しい役割・貢献・人間関係、そして故人との新しい繋がりが、これまでも大切にしてきた網の中に新しい一角として紡がれていくのである。

私は、自分の世界と自己を学び直し、自我を再統合するという能動的な悲しむ営みの具体的な方法としてマインドフルネスコンパッションの実践が有益であると考えている。次回から少しずつその考えを紹介していきたい。

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