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ポエティックな欲求があるという話。

こんばんは。
今年見られなかった桜を想って。

誰と比べることではなく、マイノリティやマジョリティのエッセンスとも距離を置き、単なるパーソナリティのお話です。
もうすでに内容が表題に準拠していますね。

いくつになっても、と言い切っていいと思います。
私のような人間は、いやもはや誰でもそうかもしれません、今でもひと月に一度くらい、とても月を見上げたくなったり、風の抜ける窓辺でウイスキーグラスを傾けたくなるものです。

誰もが一度通る道のど真ん中で、子どもの私は自分の言葉を持ちあわせている気が全くせず、一人もがいていた頃に音楽に「出会った」ことを、昨日のことのように覚えています。

もちろん、そのもっと前から音楽は私の周りにありました。
しかし、肝心の私はそのことに気がついていませんでした。
小さな頃からピアノを習わせてもらっていましたし、聞くのが好きな曲はたくさんありました。
でも自分が音楽をやっているとは認識していませんでした。

「ピアノを弾いている」だったり「好きな曲を聴いたり歌ったりする」のにも関わらず、音楽をやっていなかったんですね、不思議なものです。

今、やはり「音楽」はとても厳しい環境にあります。
私見ですが、マネタイズの側面では成立するための要素がまだまだ「音楽」に関係なさすぎます。
同時に「音楽をする」のにこれほど適した環境を整えやすい時代は未だかつてありませんでした。
それこそコロナに邪魔されることなく、自宅から世界へ、すぐ届けられます。
すぐ、私たちのもとへ、届くのです。

何が言いたいかといえば、今もがいている人がいたとして、「出会い」があることを祈っていますし、それはすでに、そこにいてくれているかもしれない、ということです。
何かを探すのであれば、あなたの隣から、私の隣から。
そう思っています。

さながらエンドコンテンツのように、随分語ってしまいました。
なお、実際の窓辺にあまり風は抜けませんし、ウイスキー1杯でそこそこダメになりますが、そこは追求せずとも許されることでしょう。

日付が変わって東京は月曜日。
雨の多い6月が始まりますが、それもまた良し。

穏やかに。

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