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僕たちは「何者かになれる」のか

 「RE:cycle of the PENGUINDRUM」を劇場へ見に行った。アニメ放送版は一回しか見たことがないし、上手い感想ならほかにいくらでもある。ここでは若者の視点から意見を書いてみたい。


輝かしい未来

 宮台真司著「終わりなき日常を生きろ」で、徹底的に述べられていたのは「輝かしい未来」の来ない、日常に支配された未来だった。これは1995年の本である。今ではどうか。
 最近ではWeb3.0やメタバース、AIなど、テクノロジー分野で期待が高まっているようである。メタバースが発展すれば「ソードアート・オンライン」のような世界が到来し、世の若者は期待する。ずっとパソコン関連の勉強をしていて、IT関連の学校へ進んだ自分も例外ではなかった。何か世界は変わるんじゃないかとうずうずしていた。
 しかし、本当にそうだろうか。なにも、テクノロジーは期待しているように発展したりはしない、ということを言っているわけではない。問題は、発展したところで人々は幸福になるのか?というところにあると思う。
 日常に溶け込んだテクノロジーは、そのありがたみを人々に感じさせることがない。それを踏まえて、発展したテクノロジーは人々を幸福にできるだろうか?
 これは「終わりなき日常」が今後も終わらないことの再認識である。少なくとも、ただ待っているだけでは自分も変わらないし、世界も変わることはない。これを踏まえて以下、二つの問題が挙げられる。

「何者かになれる」の自己流解釈~自己についての問題~

 筆者は物語に救われてきた人間である。しかし、物語によって夢に見てきたものは、経験を重ねるうえで悉く破り去られた。物語が与える希望はときに残酷である。物語によって与えられる、「何者かになれる」希望はあとになって人を絶望させたりもする。
 物語を見たとき、僕のような人間は登場人物を見て「こういう風になりたい」と考える。そして、それが現実に近ければ近いほど、その人物になれるかもしれない、と希望を抱く。「物語」とは「現実」とは正反対のものである。現実とは自己自身を持って他者とコミュニケーションをする行為だとすれば、物語とは全て頭の中で思い浮かべる理想である。理想とは幸福である。物語の中の人物は全て理想的で幸福に見える。人はそのような人物になることで、自分も幸福になることができる、と誤認してしまう。
 「異世界転生もの」における、「死ねば何者かになれる」という考え方は、現実に打ちひしがれた者の最後の手段と見ることもできる。

「物語」の提示する正義~世界についての問題~

 こちらが一般的な「ピングドラム」の見方かもしれない。すなわち、地下鉄サリン事件をどう乗り越えるか、という問題だ。
 作中では宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」のオマージュが至る所に見受けられる。宮沢賢治は全世界の幸福とか、自己犠牲のような思想を持っていた。そのような思想はどの「物語」も備えている。物語を見た人々はそれこそが正義と考えてしまう。その結果、良心的な人々は宗教で世界を革命しようと試みてしまった。地下鉄サリン事件は、「物語」の功罪的な面を持つ。
 2001年公開、是枝裕和監督の「DISTANCE」という映画がある。カルト教団が大量虐殺事件を引き起こすという物語で、地下鉄サリン事件を想起させるようなストーリーである。実行犯の一人が宮沢賢治の詩を読む場面がある。

誰が誰よりどうだとか
誰の仕事がどうしたとか
そんなことを云ってゐるひまがあるのか
さあわれわれは一つになって[以下空白]

宮沢賢治「生徒諸君に寄せる」

 これだけでは素晴らしい詩であるのに、起こした行動が間違いであった。
 こうした課題にどう取り組むべきなのか、それこそが村上春樹「アンダーグラウンド」で提唱していた「新たな物語」ではないかと僕は考える。

「RE:cycle of the PENGUINDRUM」

 調べていると、どうやらアニメ版とは大きく違う点があるらしいことがわかった。アニメ版のテーマが「きっと何者にもなれない」に対し、劇場版では「きっと何者かになれる」であった。劇場版では前者を「呪い」とし、後者のテーマに繋げていた。

解答その1

 上に挙げた二つの問題のうち、二つ目の問題は、解答を得られたような気がしている。すなわち、「苹果」を分け与えることだ。罪でも犠牲でもなんでも、平等に分割して持つことが、重要なのだ。そして、世界を狭く持つこと、つまり身近な人々との繋がりを重要視することが大事だ、とも言っている。それが全体主義に陥らないための方法であるかもしれない。

解答その2

 では、一つ目の問題はどうか?「物語」に救われて生きてきた人間が、「物語」の構造の欠点に気付いたとき、ここが一番、差し迫った問題となる。「ピングドラム」では、高倉兄弟は「陽毬のお兄ちゃん」になったことで「何者か」になることができた。そして、「愛してる」の一言で、自分はある他者にとって「何者か」になることができるとも言った。
 では、「物語」に救われるしかなかったような人間が、その「誰か」を見つけることはできるのか?
 ケロQのアダルトゲーム「素晴らしき日々~不連続存在~」では、「ピングドラム」と同じように、セカイ系を否定し、恋愛に目を向けるべきだ、というような地点に着地している。しかし、「終わりなき日常を生きろ」ですでに述べられていたように、コミュニケーション・スキルを持たない人間はそういった他者や共同体を、容易には獲得することができない。コミュニケーション・スキルは、後天的には伸ばすことが難しいからである。
 物語と現実のギャップに敗れ、「何者かになれない」者たちに与えられた解答は、現実の他者や共同体の獲得であり、それでも「何者かになれな」かった者たちはどうすればよいのか。そもそもこの問題に「物語」は答えることができるのか、考える必要があるように思える。

孤立の時代

 現代はどうやら、人々はそれぞれ孤立していく時代なのかもしれない。独身の数は増え、「おひとり様」や「ソロ活」という言葉ができる。かつて、物語はこれを批判的にとらえた。「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air / まごころを、君に」では、オタクとして、他者との接触をなくし自己に閉じこもる人間を批判的に描いた。しかし、それは一種の自己批判なのかもしれない。僕も同じ考えをしてしまうからだ。
 反対の立場から「物語」書いたものとして、二つの作品を紹介したい。このような作品が、「何者か」になれない者のための物語なのかもしれない、と思って。
 まず、海猫沢めろんの「左巻キ式ラストリゾート」だ。「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air / まごころを、君に」へのアンサーのようなものが読み取れる。
 星海社文庫から出ているラノベで、当時人気に火がついていた新本格ミステリとなっていて非常に面白い。また、エロゲのスピンオフとして書いたこともあってか、文章にR-18要素が沢山あるのが、他とは違う小説だと感じるところでもある。

 二つ目は先ほど紹介した「DISTANCE」である。僕がこの映画を見て感じたのは、一言で言えば「距離」である。タイトルそのまんまであるが、その分監督の言いたいことに近づいているのではないかと思う。即興演技が用いられていて、そこから感じるのは「ぎこちなさ」である。登場人物達のどことなく感じる噛み合わなさ、そしてカルト教団の実行犯と、その関係者との会話から読み取れる「分かり合えない」感じが、人と人との「距離」を現わしているように感じるのだ。人は永遠に孤独なのではないか、と感じる。

最後に

 「ピングドラム」についての感想は少なくなってしまったが、映画本編は非常に面白く、素晴らしい体験であった。また、この作品を通して、地下鉄サリン事件に関連した書籍や映画などに触れてみたため、それらをまとめる際の柱にもなった。昨今では鳴りを潜めている、現実にアプローチした物語として、もっと僕のような若い世代が触れてもよいと思う。
 最後になるが、「物語」を糧にするような人たちには、「物語」と「現実」の狭間あたりを上手く見極めて、どうか幸福に生きてほしい。



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