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記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。

これまでの記事で書き落としたことのまとめ,2024年3月12日


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注意


これらの物語の重要な展開を明かします。特に、PG12指定の映画『シン・仮面ライダー』にご注意ください。

特撮映画

『シン・仮面ライダー』
『メカゴジラの逆襲』
『ゴジラVSメカゴジラ』
『ゴジラ×メカゴジラ』
『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』

漫画

『真の安らぎはこの世になく シン・仮面ライダー』
『鋼の錬金術師』
『ドラゴンボール』
『ドラゴンボール超』
『築地魚河岸三代目』
『喰いタン』
『JIN-仁-』

テレビアニメ

『ドラゴンボール』
『ドラゴンボールZ』
『ドラゴンボール超』

アニメ映画

『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』

小説

『二重螺旋の悪魔』
『神曲』(ダンテ)

はじめに

 今回は、『シン・仮面ライダー』や『ドラゴンボール超』について考察などを記します。

「分かるように自分を変えたい」というより「理解してほしくないところをわきまえたい」ではないか

 『シン・仮面ライダー』で、緑川イチローは、母親が無差別殺人の犠牲になったことから、「人間を信じない」として、人間全ての魂に当たるエネルギーを「嘘のつけない」世界に連れて行く計画を進めました。
 同じような殺人で父親を失った本郷は、それを止めようとしました。
 「僕には他人がよく分からないから、分かるように自分を変えたい。世界を変える気なんてない」と言っていましたが、よく考えますと、イチローへの反論としてずれているとも言えます。
 イチローの場合、本当に重要なのは、いくら「人間を理解することが大事だ」と一般論で言われても、「嘘のつけない世界」に全員連れて行くのは過剰だということで、むしろ「理解してほしくない」ことがあると言えます。
 「他人が分かるように自分を変える」というのも、むしろ理解してほしくないところには踏み込まないことを、「コミュ障」ながらも礼儀正しい本郷はわきまえていたはずです。
 重要なのは「世界を変えるか自分を変えるか」の二項対立ではなく、「相手の理解してほしくないところには踏み込まない」ことだったはずです。
 一見情熱的な意見が、しばしば本題からずれることは、多くの物語にあるのかもしれません。

秘密組織が「嘘はいけない」と計画を進める矛盾

 また、さらに踏み込んで考えますと、本郷やイチローなど、本作の登場人物のほぼ全員が、一般人に秘密を持っています。そもそも機密保持のために遺体を全て溶かすような秘密組織や政府の戦いなのですから。
 そして、イチローも本郷も「人類の幸福」を自分なりに目指すために戦い、そのためには「必要な嘘や秘密」を認めていたはずです。
 そうして秘密裏に計画を進めるのも、「人類全体のためなのだから仕方がないだろう」と正当化していたはずであり、イチローはそうしておきながら「秘密を許さない計画」を進める矛盾がありました。
 そうしてイチローと本郷の両者の体が機密保持のために消えたのも、考えてみれば当然の結果かもしれません。

プラーナが2通りになっていないか

 『シン・仮面ライダー』では、生命の「魂」に当たるプラーナというエネルギーを使うらしかったのですが、これについて分からないことが幾つかあります。
 まず、生命エネルギーのプラーナを、バッタオーグ=仮面ライダーは風と共に周りの生命から吸収するらしいのですが、プラーナを失うことで命を落とすようです。イチローも「プラーナを失いルリ子の後を追え」と言っています。
 しかし、プラーナを失い力尽きたはずの本郷の「プラーナ」はマスクに残されていました。
 ここから推測したのは、生命のプラーナには、体のエネルギーと魂のエネルギーの2種類がある可能性です。
 本郷は体のプラーナを失っただけで、意識に当たる魂のプラーナは残っていた可能性を考えました。
 アリストテレスの、ものごとの原因に質料、形相けいそう、作用、目的の4つがあり、家には石の質料、家の形の形相があるらしいので、人間にも質料と形相があるのではないかという理論があります。
 ダンテの『神曲』にもそのような、人間の質料のマテリアと形相のフォルマの区別があります。
 仮にプラーナにも、体の質料のプラーナと、形相のプラーナがあるとすれば、本郷の魂が残った理由もある程度成り立つかもしれません。
 『鋼の錬金術師』原作では、錬金術において人間は魂、精神、肉体に分かれるとされましたが、魂というのはまるで核反応のように膨大なエネルギーで、精神や肉体は「残りかす」と表現されました。
 また、魂は使い過ぎると消えるエネルギーで、「あの世に行く」という扱いは特にみられず、「生命エネルギー」という表現が正確そうです。
 そう考えますと、『シン・仮面ライダー』のプラーナに質料プラーナと形相プラーナがあれば、それが『鋼の錬金術師』原作のエネルギーの魂と、精神に該当するかもしれません。体のエネルギーを使い果たした本郷の最後に残ったのが、精神のプラーナというわけです。

『ドラゴンボール』の魂の定義が二重になっていないか

 また、『ドラゴンボール』原作でも、死んだ生命体が「あの世」に行くときに、その「魂」が、あの世に行き意識が残り、界王の星で鍛えたり地獄に行って裁かれたりする場合と、ナメック星の爆発で孫悟空が死んだと思われたときに、「魂がその場所にあるから、ドラゴンボールで生き返ってもまた宇宙空間で死んでしまう」と言われた場合の2通りで、どうも意味合いが異なる印象があります。
 つまり、魂を、「死後も残る意識」と、「ドラゴンボールで生き返るための目印」の2通りで使っている印象があります。
 前者の理論を後者に適用すれば、あの世で修行などをしていた悟空やピッコロは、ドラゴンボールで生き返るときに界王の星などでその体が与えられたので納得は出来ますが、アニメオリジナルなどで、魔人ブウに殺されたクリリンなどがあの世にいたのが、地球の場所で生き返ったのは違和感があります。また、後者の理論を前者に適用すると、ナメック星で死んだまま生き返れなかった、ベジータに殺されたナメック星人などは、宇宙空間に魂がいるままで、ナメック星に対応するあの世の天国などに行けないのか、という疑問が残ります。
 これも、「魂」の定義が、意識を重視する前者か、体を重視する後者かによって異なるのかもしれません。
 『ドラゴンボール超』の「魂すら破壊する」破壊神はエジプト風の服装ですが、エジプトでは、魂の定義がバーとカーで、体の目印とあの世に行く意識に分かれるらしいので、何か関連を見出せるかもしれません。

人称と「神」

 『ドラゴンボール超』で、神々の世界のインターネットにあげるらしい「神チューブ」という動画があるらしいのですが、これは「YouTube」のパロディだとみられます。
 「You」を「神」に対応させるときに幾つか考えたこととして、『二重螺旋の悪魔』と『鋼の錬金術師』原作があります。
 『二重螺旋の悪魔』では、「神」を一人称に使う存在がいました。本当の「神」かは表現が分かれますが。
 『鋼の錬金術師』原作では、錬金術師が禁忌である人体錬成を行うときに、特殊な世界を見せて新しい能力を与える代わりに体の一部などを奪う「真理」が現れますが、「真理」は「私は一であり全、あるいは世界、神、そしてお前だ」と言うこともあります。
 この辺りに、人称と「神」について考える余地がありそうです。

先輩が後輩にだまされた「弱さ」

 『築地魚河岸三代目』原作で、ネット通販でカニに関してだまされた若者に、「だまされる方が悪い」と言った仲卸もいましたが、主人公は「だます方が悪いに決まっている」と言っています。
 しかし『喰いタン』原作で、ある意味「だまされる方が悪い」と言えるときがありました。大学の先輩が後輩に、専門知識の不足でだまされたためです。
 後輩が卒業する先輩にふるまうジャガイモ料理で、後輩の1人がポテトチップス用のジャガイモの芽を取らなかったので先輩に食中毒を起こしたとき、彼は「僕はポテトグラタン用のジャガイモを調理していました」と嘘をついたものの、ポテトチップス用に水にさらしてでんぷんを落としたジャガイモだったのでグラタンの粘りが足りないことを、偶然来ていた小説家の高野に見抜かれました。
 「こんなことは農学部の常識なんだが、ジャガイモの芽を取るだけでなく、勉強もいい加減だったようだね」と言っています。
 すると先輩は「芽を取らず、嘘をつき、あまつさえでんぷんの知識さえない」と三重に怒りました。
 しかし、でんぷんの知識が農学部の常識ならば、知識不足についてだけは、それでだまされる先輩も、というより長く学び、卒業間際の先輩の方が悪いとさえ言えるかもしれません。
 この回では先輩が後輩に高圧的に接するのが問題視されていましたが、ここで「だまされる先輩の君達にも問題があるよ」と高野が言ってさえいれば、先輩にも反省を促せたかもしれません。

ゴジラシリーズの弱さと悪さのねじれ

 「だまされる方が悪い」ということについて、いわゆる「弱いことと悪いことの区別」が重要なのかもしれません。
 だまされる知識不足、つまり「弱いこと」を、だます「悪いこと」以上の「悪いこと」にしたい心理があるのかもしれません。

 少しずれますが、多くの物語では、悪役の強さは「危険」、「暴力」で、弱さは「怠慢」などにして、主人公側の強さは肯定する二重基準などがみられます。
 たとえば、ゴジラシリーズでは人間の核兵器で生物が変化した怪獣のゴジラが暴れるので、それを人間がさらなる兵器で倒そうとするのを問題視することもありますが、ゴジラを倒せない「弱さ」を「無能」のように責めるのか、ゴジラを傷付ける「強さ」を「暴力」で「悪い」ように責めるのか、たいていはねじれているところがあります。
 たとえば、『ゴジラVSメカゴジラ』では、人間が、未来人によるキングギドラのサイボーグから生み出した純粋な機械のメガゴジラについて、最終的にゴジラに敗北したとき、「命あるものとの差だ」という趣旨のまとめがありました。
 『ゴジラVS』シリーズで、この『VSメカゴジラ』の辺りからゴジラの同族のベビーゴジラが現れ、「命あるもの」としてゴジラを擁護する主張があったようでしたが、その結果、「命あるものだから勝てた強さ」を肯定したようです。

 しかし、それと繋がらない『ゴジラ×メカゴジラ』では、初代ゴジラが死んだ骨を利用したサイボーグの「機龍」で、新しいゴジラに立ち向かおうとしたのですが、『VSメカゴジラ』の論理ならば「命あるものの強さで、ゴジラに勝てるかもしれない」と肯定されるべきなのが、「ゴジラのサイボーグなんて可哀想だよ」と、こちらでは「命あるものを兵器にするなんて悪い」という論理で否定しています。
 つまり、「命なき兵器なら負けたから弱くて悪い」と言い、その論理ならば強いはずの「命ある兵器」は「命の冒涜」だから悪いと、どちらにしても人間を悪役にしたいために別々の論理で否定しているのです。
 ちなみに、昭和シリーズの、『メカゴジラの逆襲』でメカゴジラを地球侵略のために使おうとした宇宙人は、人間のほとんどを「頭が悪い」とみなしていたようでしたが、彼らにはゴジラを利用する、人間をサイボーグにするなどの罪悪感はみられず、人間を批判するばかりでした。
 ゴジラのサイボーグを兵器にする『×メカゴジラ』の人間が悪いならば、『メカゴジラの逆襲』の宇宙人にしても、ゴジラの能力を複製して、別の人間をサイボーグにもしていた罪があるはずですが、その辺りの反省はしておらず、やはり人間ばかり責めていると言えます。
 この辺りで、ゴジラシリーズは人間ばかり責めるために、人間の兵器などの弱さを悪さのうちにしたり、人間の兵器が強いときはその強さが悪い暴力かのように扱ったりして、主張をずらしているとも考えられます。

「弱さ」も「悪さ」も抑えられた新生レッドリボン軍

 ちなみに、『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』の「悪役」の新生レッドリボン軍は、その「弱さ」と「悪さ」について、二重でかなりましな組織だったと考えます。
 というのも、新生レッドリボン軍は旧レッドリボン軍と異なり、主人公の孫悟空達の、主に宇宙人を警戒して、科学者のヘドをだましていたようでしたが、悟空の仲間に、ピッコロやベジータなどの前科者がいるのは事実であり、あながち全てが間違いでもありませんでした。
 そのヘドのいる職場では、ヘドの生み出した人造人間のガンマ達に、兵士があいさつをしたり、なりすましたピッコロにはだまされたものの体調が悪そうなら心配したり、新人に無理な戦いをさせないようにしたり、部下の提案も根拠をもって判定したりと、予想外に合理的かつ優しい組織だったのです。
 旧レッドリボン軍は、少し粗相をしただけで処刑して音を楽しむなどの非合理的かつ残忍な組織でしたが、新生レッドリボン軍はそうでもありませんでした。
 ちなみに、フリーザ軍は合理的かつ残忍だと言えます。
 その意味で、「弱い」とも言い切れず、「悪い」とも言い切れない「悪役」がいた『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』は特殊な作品でした。
 というより、『ドラゴンボール』シリーズの、主人公達が地球の社会や政府に正体を隠して戦う流れに限界が生じ、「黙っている主人公達も悪いのではないか?」という疑問の余地が私にはありました。

ウイスやヴァドスなどの「上位概念に出来ないこと」

 『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』で、破壊神のビルスに仕える天使のウイスは、別の事情で自分の惑星に住むことになった宇宙人のレモが料理上手なので、ビルスがそれまで料理をさせていたウイスを「クビ」にしたとき、それを「悔しい」と言いつつ、あまり嫌がっていないようでした。
 『ドラゴンボール超』でも、ビルスと兄弟の破壊神のシャンパも料理を食べるのが好きなものの、シャンパに仕えるヴァドスの料理をまずいと言っているらしいこと、ベジータが珍しいと思わないゆで卵を美味いと言うこと、ビルスがカップラーメンすら知らないことなど、あまり天使は料理が上手でなく、破壊神が無知である可能性があります。
 また、ビルスとシャンパは破壊神の中でレベルが低く、破壊神より上の全王に消される寸前でした。
 また、漫画版で天使の見習いのメルスは、銀河パトロールという、比較的弱い宇宙人の警察組織にいましたが、料理は習わなかったようです。
 すると、ウイスなどの天使はそもそも、料理が苦手で、むしろ「もっとレベルの高い仕事をしたい」と思っているのが、食いしん坊の破壊神に強制されて、嫌がっていたのかもしれません。
 しかし、やがて天使も従う全王の気まぐれで、本当に天使も料理をする必要に迫られ、「レベルの低い」破壊神のビルスやシャンパ、そしてその従業員のようになったレモの料理の知識に救われるかもしれません。
 それも、「上位概念に出来ないこと」に繋がるかもしれません。




2024年3月12日閲覧


『JIN-仁-』のパターナリズムと「自己責任」論

 『JIN-仁-』原作では、幕末の歴史が、現代からタイムスリップした主人公の仁により変化していますが、倒幕勢力に対して、大政奉還により戦いをやめるはずが、彰義隊が逆らって薩長軍と戦い、生き残りが殺されそうになったとき、勝海舟は憤り見捨てようとしました。
 「あの戦のせいで俺のして来たことも水の泡だ」という主張は、「戦わなければ残した勢力で新政府に圧力をかけて徳川家を残すことは出来た」という意味のようです。しかし勝の教え子の橘恭太郎は、「それは彼らに説得力がありません」と反論しています。
 これは、「ここで戦わず我慢することがお前達の将来のためだ」という勝なりの幕府軍へのパターナリズム、善意での強制と、それに逆らったことで「お前達が勝手にしたことだから助けない」という「自己責任」論が結び付いています。

『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』の悟空からビルスへのパターナリズム

 また、『ドラゴンボール超』シリーズでも、パターナリズムと「自己責任」論の両立がみられます。
 人命を軽んじるものの、宇宙を大局的に平和にしたいらしい破壊神ビルスが、その方法がいい加減なために、上の神の全王に「レベルが低い」とみなされていたようです。
 平和にする方法として、周りの惑星を侵略するサイヤ人を、その上司のフリーザに子供のいる惑星ごと滅ぼさせてフリーザは放置するなどです。
 また、フリーザは、生き残ったサイヤ人のうち、破壊神以外の神々に善良と認められる孫悟空などに倒されたのですが、悟空達は宇宙の危機を救うために、フリーザを生き返らせざるを得なくなりました。
 そのアニメ本編のあと、フリーザ軍が集めた、特に罪のない子供のまま、離れた惑星で育てられたサイヤ人のブロリーは、悟空との戦いを経てフリーザ軍を離反したものの、ビルスすら超える可能性のある強さでした。
 それでビルスはブロリーを警戒していたらしいのですが、ブロリーがフリーザ軍に引き入れられないようにしたい意思を、孫悟空に示したらしく、悟空はビルスの惑星にブロリーを住ませました。「ここなら絶対にフリーザは来ないだろう」と。
 パターナリズムは、本来上の立場から下の立場の相手のためを思って強制することですが、下からの逆説的なパターナリズムとして、悟空から「それがビルス様のため」と、ビルスにとって危険かもしれないサイヤ人をビルスと共に住ませる主張があります。
 また、元々フリーザを早く破壊せず強くしたのも生き返らせざるを得ないほど宇宙のレベルが低かったのも、ビルスの責任がみられるので、「こうなったのはビルス様のせい」という「自己責任」論も成立する余地があります。
 さらに、ブロリーは結果的に、サイヤ人としては珍しく誰も殺していないようですが、父親が死んだ怒りのあまりに、その上司のフリーザが殺したことを知らずに殴り倒すなどの見境のないところもあります。しかし、結果的にフリーザばかり傷付けたのは、フリーザの「自業自得」とも言えます。
 加えて、フリーザ軍にいた、ブロリーと共に行動する女性のチライが、ビルスに「可愛い」と言われ、ウイスにも「ビルス様はベタな趣味だったんですね」と言われています。そのチライに酒を飲もうと誘ったフリーザ軍の男に対してブロリーは、チライやレモを守ろうと争いを起こしていました。
 
 今後ビルスの行動がチライについて、あるいは破壊神としての冷たい行動によりブロリーを怒らせれば、ビルスにとって損かもしれません。しかし、「ビルス様が悪いことをしなければブロリーも怒らないのではないか?」と、「自己責任」論に繋げる余地もあります。


まとめ


 『シン・仮面ライダー』や『ドラゴンボール超』について、幾つかまとまりました。



参考にした物語



特撮映画

石ノ森章太郎(原作),庵野秀明(監督・脚本),2023,『シン・仮面ライダー』,東映
大河原孝夫(監督),三村渉(脚本),1993,『ゴジラVSメカゴジラ』,東宝
手塚昌明(監督),三村渉(脚本),2002,『ゴジラ×メカゴジラ』,東宝
手塚昌明(監督),横谷昌宏(脚本),2003,『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』,東宝
本多猪四郎(監督),高山由紀子(脚本),1975,『メカゴジラの逆襲』,東宝

漫画

山田胡瓜,藤村緋二,石ノ森章太郎,庵野秀明,八手三郎,2023-,『真の安らぎはこの世になく-シン・仮面ライダー SHOCKER SIDE』,集英社
荒川弘(作),2002-2010(発行),『鋼の錬金術師』,スクウェア・エニックス(出版社)
鳥山明,1985-1995(発行期間),『ドラゴンボール』,集英社(出版社)
鳥山明(原作),とよたろう(作画),2016-(発行期間,未完),『ドラゴンボール超』,集英社(出版社)
鍋島雅治/九和かずと(原作),はしもとみつお(作画),2000-2013(発表期間),『築地魚河岸三代目』,小学館(出版社)
寺沢大介,2002-2009(発行),『喰いタン』,講談社
村上もとか,2001-2010(発行期間),『JIN-仁-』,集英社(出版社)

テレビアニメ

内山正幸ほか(作画監督),上田芳裕ほか(演出),井上敏樹ほか(脚本),西尾大介ほか(シリーズディレクター),1986-1989,『ドラゴンボール』,フジテレビ系列
清水賢治(フジテレビプロデューサー),松井亜弥ほか(脚本),西尾大介(シリーズディレクター),小山高生(シリーズ構成),鳥山明(原作),1989-1996,『ドラゴンボールZ』,フジテレビ系列(放映局)
大野勉ほか(作画監督),冨岡淳広ほか(脚本),畑野森生ほか(シリーズディレクター),鳥山明(原作),2015-2018,『ドラゴンボール超』,フジテレビ系列(放映局)

アニメ映画

鳥山明(原作・脚本),児玉徹郎(監督),2022,『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』,東映

小説

梅原克文,1998,『二重螺旋の悪魔(上)』,角川ホラー文庫
梅原克文,1998,『二重螺旋の悪魔(下)』,角川ホラー文庫
梅原克文,1993,『二重螺旋の悪魔 上』,朝日ソノラマ
梅原克文,1993,『二重螺旋の悪魔 下』,朝日ソノラマ
ダンテ(著),寿岳文章(訳),1987,『神曲 天国篇』,集英社


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