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純愛の功罪 里見義弘と青岳尼
純愛ははた迷惑。そう思ったことはありませんか?
結ばれてはいけない男女が「愛」のために殺人事件をおこし、警察から逃げ切れないと知って自殺する……。
これは古いイギリスのミステリードラマのあらすじですが、視聴したとき、
(おたがいにとっては至高の純愛かもしれないけど、殺された人やその遺族にとってはたまったものではないな)
というのが感想でした。
戦国時代にも、さまざまな「愛」があるようです。
ここで取り上げるのは里見義弘と青岳尼。
まず里見家についてざっと説明します。
室町末期から江戸初期まで存在した関東の大名家。領地は房総半島一帯。江戸初期には現在の館山市を所領としました。のちに徳川家によって領地を取り上げられ、最後の藩主は「国替え」という名目で流罪に処され、里見家は消滅します。
それが里見一族です。
拙作「南総里見興亡記」では歴代の里見家の中心人物と事件をダイジェストにあつかっております。
まず里見義弘です。里見義堯の嫡男。
実は、あまり頭がよくなかったのではないか……とわたしは疑っています。(ごめんなさい)
義堯の正妻は夷隅川(いすみがわ)ぞいの万喜(まんき)城の城主・土岐為頼(ときためより)の娘(のちに正蓮尼)です。ただし、彼女は子を授かっておりません。ちなみに土岐氏は美濃の国の守護大名の家柄で、いわば名族です。
一方の里見義堯は、もともと里見家の嫡流ではありませんでした。
稲村の変と呼ばれる闘争で、従兄弟で里見宗家の義豊を滅ぼして里見家の家督を簒奪したのです。
簒奪者として後ろ指差されることが疎ましく、自分が国主にふさわしい人格者であることを部下に強調する意味合いもあったのでしょう。部下には手柄や家柄、序列というものをとても厳格に守らせました。
そういう厳しい義堯にとって、正室の子がいない以上、側室に産ませた自分の子どもたちはいわば
「どんぐりの背比べ」
と考えていたふしがあります。
「身分の低い側室に産ませた男児はその器量によって序列を決める」
とでも言い渡していた可能性もあります。
義弘は最初に生まれた男の子という理由だけで、かわいがられていたとは思えません。
おかげで、義弘は父・義堯の「副将」としては従順で勇猛な武将に育ちます。常に弟たちより頭一つ抜きん出ようと先陣を切って戦います。
そして、いつ弟たちに嫡男の座を奪われるかピリピリしていたらしいのです。
「義弘どのがあなたの武功をねたんで、ひそかに殺そうとしていますよ」
と家臣に告げられた弟などは他国へ逃亡しています。告げ口する家臣も家臣ですし、逃亡する弟も弟です。また、そんなウワサをたてられる義弘も人望がなさそうです。
もっとも、里見一族だけでなく、関東武士たちは家督を争ってばかりいました。内紛がないのは北条氏だけと言っても過言ではありません。(;^_^A
そして運命のスタンドプレイ。
時は弘治二年(1556)
場所は臨済宗鎌倉尼五山・第一位の太平寺。
その住持・青岳尼が連れ去られたのです。義弘によって。
決して父・義堯の命令ではありませんでした。
これには史料がほとんどなく、当時鎌倉を統治していた北条氏康の文書が残るばかりです。
その文書は臨済宗鎌倉尼五山・第二位の東慶寺にあてたもので、東慶寺には青岳尼の妹である旭山尼がおりました。
……太平寺どの、むかい地へ御うつり、まことにもってふしぎなる御企て、是非におよばず候、太平寺御事は、伽藍の事たやし申すよりほか、これなく候……
冒頭にある「太平寺どの」とは住職の青岳尼本人のことで、「むかい地」というのは里見義弘の父・義堯が支配する房総半島のことです。
北条氏と里見氏は敵対関係にありました。
敵である里見家の嫡男が自分領地である鎌倉の尼寺から尼僧を強奪し、妻にしたということは北条氏にとって苦々しい事件だったわけです。
もっとも、この文面ににじむ北条氏康のいまいまし気な感情から、現代の研究者たちは
「被害者であるはずの太平寺を、なぜ廃寺という厳罰に処するのか?」
「ふしぎなるおくわだて、とはまるで太平寺の住職に責任があるような文面だが?」
「いったい、青岳尼は強引に拉致されたのか?」
「里見の海賊が鎌倉を襲うことはしばしばあったことだが、尼寺を襲撃したのはこれが最初で最後。なぜ太平寺を襲い、よりによって青岳尼を連れ去ったのか?」
「青岳尼は房州へ渡るとき、本尊である聖観世音菩薩像を持参している」
「強引な拉致ではなく、自分の意志で青岳尼は里見義弘の船に乗ったのではないか?」
とさまざまに論じられました。
そして結論は
「里見義弘と青岳尼の情熱的な恋愛じゃないの?」
に落ち着いたわけです。
まあ、殺伐とした関東の戦国時代に、これくらいロマンがあったほうが「ほっ」としますよね。
いったい、青岳尼とはどういう女性なのでしょう?
青岳尼と旭山尼は姉妹で、父親は小弓公方・足利義明。
公方というのは将軍とほぼ同じ意味で、江戸時代には庶民は徳川家の将軍を親しみをこめて「公方さま」と呼んでいます。
もっとも、戦国時代の関東で「公方」というのは少し意味がちがいます。
室町幕府が成立したとき、京都に「花の御所」を造営した足利氏は
「西国は将軍家がおさえられるが、東国(関東)の武士たちは源頼朝をトップにたてて鎌倉に幕府をおいた伝統がある。反乱を起こすかもしれない」
「それなら関東武士たちをまとめるのに、足利将軍家の血を引く者を鎌倉におこう」
と決めました。
これが「鎌倉公方」です。
つまり西国は将軍が統治して、東国は鎌倉公方が統治するというわけです。
もっとも、鎌倉公方が力をつけて「独立」したり「政権を簒奪」することを警戒した足利将軍家は、公方の補佐役で監視役として、
「関東管領」
という役職の重臣をつけました。
しかし、鎌倉公方が将軍に謀反の意思をもったり、関東管領である家臣の力が強くなったりして、「永享の乱」がおこります。引き続き「結城合戦」があり、結城合戦の戦勝祝いに喜んでいた六代将軍・足利義教が暗殺される「嘉吉の変」があったあと、関東では「享徳の乱」が勃発します。
京都で「応仁の乱」が起こる70年ほど前から、すでに関東では「戦国時代」に突入していたわけです。
こんな風に、鎌倉が荒廃したので、せっかく将軍が「鎌倉公方」任命しても新任の公方が鎌倉に入れないという事情がありまして、やむなく古河に落ち着いて公方となったのが「古河公方」
です。
さらにその古河公方も息子と対立。
そんな古河公方を父に持ち、父と兄の対立に感情を高ぶらせ
「おれも還俗して関東に覇を唱えよう」
と寺を抜け出した傲慢な少年が
「足利義明」
です。
彼は真里谷武田氏の力を借りて小弓の地に落ち着き、そこで
「小弓公方」
を名乗ります。
長くなりましたが、これが情熱的な恋のヒロイン「青岳尼」の父親です。
小弓公方・足利義明はしかし、国分寺台合戦で敗死。
孤児となった足利義明の子どもたちは里見家に保護されます。
おそらく青岳尼は長女で、このとき十代半ばだったのではないか、と考えています。この根拠は拙作「南総里見興亡記」のあとがきに述べているので割愛しますが。
最新の学説では
「青岳尼は自分の意志で里見義弘が率いる軍船に乗りこみ、房州へ渡ったのだ」
「里見義弘の弟とされている里見義頼(よしより)は実は義弘と青岳尼とのあいだの子」
というものがあります。
その可能性もあるでしょう。
敗者である亡父の志を里見家に託す使命感があって、青岳尼は還俗して義弘の妻になったのでしょうか?
一方の義弘はどうでしょう?
弟たちを出し抜いて里見家の家督を継ぐためには、自分の妻になる女性は
(なにがなんでも身分が高い女でなければならない)
という気持ちだったのではないか? と疑っています。
その証拠というのもなんですが、青岳尼と別れたあともやはり公方家の娘を正室にむかえているからです。
現実的に考えると、この「青岳尼拉致事件」は里見家にとって利益にはなりませんでした。
北条氏への「いやがらせ行為」としては成功しましたが、義弘はおそらく父の義堯の激怒にあって青岳尼と別居せざるを得なかったと思われます。家督をなかなか義弘にゆずらなかったことは、やはり軽率で打算的な義弘に人望がなかった証拠ではないでしょうか?
そして、おそらくは青岳尼との間に生まれたであろう里見義頼と晩年にするどく対立し、義弘は酒におぼれて命を落とします。
父である義弘への里見義頼の悪感情はやがて、里見家を二分する「天正の内乱」の原因となるわけです。
やっぱり、純愛ははた迷惑。
それでも
「鎌倉の太平寺にいて、わたくしは自分自身を生きていたとは思いません。ただ物のように置かれていただけですわ。それにもし、寺を襲撃されたとき、わたくしが里見義弘に抵抗して死を選んでいたら、なんの伝説にもならなかったでしょう? 短くても確かに自分の人生を生きた。そうはっきりと言葉にするために、わたくしは海を渡ったのです」
青岳尼にはそんなセリフが似合うような気がします。
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