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スター・ウォーズなので何か言っておく

『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』を見てきました。

が、見終わった瞬間に「うーん、特に言いたいことがない。」と思ってしまった。

とはいえ相手はスター・ウォーズだし、何かは言っておきたい。

そもそもスター・ウォーズってそんなに面白くない

っていうと怒られそうですけど、念のため最初に書き添えておくと、旧三部作の特別篇が公開された時期(1997年)に出会ってからスター・ウォーズ(以下SW)が大好きで、旧三部作は相当な回数見返してます。そもそも何度も繰り返し見てる映画自体ほとんどないので、そんな存在は唯一SWのみと言っていい。有り体に言って、ファンですね。

でも、SWの内容を全く知らない人にこの映画をおすすめしようと思うと、これがなかなか難しい。試しにあらすじで説明しようとすると、筋書きだけ見ると、なんだかすごく凡庸というか、興味のない人からしたら「ふーん」で終わっちゃう話なんですよね。僕の要約の仕方に問題があるのかもしれませんが。

じゃあ、SWの何にそんなに魅せられてきたのか。ざっと挙げていくと…
キャラクターの造形、衣装、動き、ネーミング、音楽、効果音、鳴き声(言語)、ガジェットデザイン、宇宙船デザイン、ドロイドデザイン、ロゴタイプ、ポスターデザイン、チャンバラアクション、ミニチュア特撮、ワイプによるダサい場面転換、エトセトラ…そしてそんな要素が全て組み合わさった上での世界観とストーリー。
魅力を要素分解して魅力度順に並べていくと、どうしてもストーリーが一番最後尾になるんですね。

あまりにもこうしたアイコニックな要素が満載された映画シリーズだったので、生みの親であるジョージ・ルーカス自身が手掛けた新三部作(最近はプリクエル・トリロジーっていう呼び方があるんですね)で、あえて旧三部作の要素から外しにかかったキャラやメカたちは、いずれも旧作ほどにはファンに愛されていないように見えます。ジャー・ジャー・ビンクス、セブルバ、ワトー、グリーヴァス将軍、ドゥークー卿、バトルドロイド、クローントルーパー…

新三部作の中で旧作と並ぶくらいのアイコニックな存在になれたのって、ダースモールだけじゃないかな。…というのは主観も入ってますが、見方によってはチョイ役で内面描写ゼロの登場人物が、超絶カッコいいライトセーバー使いとキャラクターデザインによってのみアイコンになるというのも、ある意味とてもSWらしいのかもしれません。

20世紀のデータベース遺産

ジョージ・ルーカスの手を離れ、続三部作(シークエル・トリロジー)の第一弾として2015年に公開された『フォースの覚醒』は、新三部作に比べると旧三部作が持っていたエッセンスがとてもうまく活かされた映画でした。単体のエンターテイメント映画としては全作品中一番面白い映画だったんじゃないかとさえ思います。
にもかかわらず、個人的にはこの映画を観たくらいからSW熱が急速に冷めていったように思います。

SWが大量に持っているデータベースを最大限活かして2015年に映画を作るとはどういうことなのか。
僕が持った感想は「スター・ウォーズには結局スター・ウォーズしか描けないんだなぁ」ということでした。

一方では、第二次世界大戦中にナチスドイツと戦う愛国戦士として誕生したキャプテン・アメリカを、国家と個人の尊厳の間を揺れ動く奥行きのあるキャラクターとして再解釈するような方法で、幅広く現代的なテーマを扱い続けるマーベル・シネマティック・ユニバ―ス(MCU)が席巻する中で、スター・ウォーズという映画シリーズがあらかじめ持っているデータベースは、舞台が「遠い昔、はるか彼方の銀河系」というフィクション空間であるだけに、むしろ70年代末から80年代初頭という時代のアメリカのカルチャーと切り離しきれないのかもしれない。

それから毎年一作ペースで続いた公開作は全て観てきましたが、いずれも劇場で一回観たきりです。
近年の作品では最も評価の高い2016年の『ローグ・ワン』もあまり印象に残っていないし、2017年の『最後のジェダイ』は既に期待値が下がっていたにも関わらず、それを大幅に下回って、観終えた直後には心から「二度と観るか!」って思ったし。
2018年の『ハン・ソロ』はチューイがいっぱい活躍してたのでとりあえず満足。

“Just Rey.” で終われなかった映画

そして、前作で期待値が完全に地に落ちた状況で観に行った『スカイウォーカーの夜明け』
冒頭で、特に言いたいことがないなどと嘯きつつ、やっぱり言いたいことがあるからここまで書いている訳ですが、端的に言って「スター・ウォーズには結局スター・ウォーズしか描けない」という印象をますます強くしました。

極力ネタバレは避けようと思いつつ、やっぱりネタバレにはなっちゃいますが、その印象を決定付けたのはラストシーンです。実はそのシーンが訪れるまではまだぎりぎり希望があった。

映画の割と序盤のほうで、主人公レイが名を尋ねられてこう答えるシーンがあります。

“Just Rey.”

この映画の最後のセリフは多分これだな、と思いました。
ところが、名を尋ねられる場面がラストシーンに来るという予測は合っていたものの、最後のセリフは自分の予想(というか期待)に反するものでした。

ある人からすれば、このセリフで映画を終わらせることがこれ以上ないくらいにキレイな着地だったのかもしれませんが、僕にはこれが「これからも20世紀のデータベース遺産を使いまわして作品(商品)を作り続けます」という宣言のように聞こえて、暗澹たる気持ちになってしまいました。

『最後のジェダイ』がグダグダになりながらも到達した、スター・ウォーズを血族の物語から解放して全ての人にジェダイの可能性を拓くエンディングは、本作で完全にスルーされました。

イビツな三部作

発見があったとすれば、ここまで観て振り返ると『最後のジェダイ』はあれで良かったんだなってことです。
掲げられた理想がことごとく潰えていく様をメタレベルで見せつけらえるような映画でしたが、これがなくて続三部作がJ・J・エイブラムス監督作だけでキレイにまとまっていたら、2010年代後半にあって20世紀のデータベース宇宙に閉じこもって戯れるようなものになっていたかもしれない。
SWが映画として完璧であったことなんて多分一度もないし、どのトリロジーも連作として相当歪だと思いますが、その中でも圧倒的に歪な続三部作は、だからこそ後世になって見返した時に、強烈に2015年から2019年という時代の混乱を映すドキュメントになっているのかもしれません。


とか何とか言いつつ、新しい作品が公開されればこれからも100%フォローし続けるんだろうと思います。こうなってくると、もはや動物的な反応ですね。

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