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学習の高速道路とマクルーハンの見た未来

名神高速を京都から大阪に向かって営業車を走らせながら、カーステレオで誰か(多分落合陽一氏だったと思う)が話す知覚の扉を開くようなちょー面白い話を1.5倍速で聴いていて、ふと思った。

あ、これね!「学習の高速道路」って。

「学習の高速道路」とは、2006年のベストセラー梅田望夫著『ウェブ進化論』の中で紹介された、羽生善治さんが当時の将棋とITの関係について語った言葉の中に登場する表現。
ITとインターネットの進化によって、将棋が強くなるための高速道路(膨大な棋譜データの共有、いつでも強敵と対戦できる環境)が一気に敷かれて、従来よりも圧倒的に速いスピードでかなりのレベルまで強くなれるようになった、と。

チープ革命、Web2.0、ロングテールなど、当時の新しいキーワードを軸に、人類総表現者時代たるインターネットの未来を肯定的に示したこの本が発表されて12年が経ちますし、実際ここで言われていた高速道路の恩恵は確実に受けて生きてきたものの、改めてそう実感する機会はありませんでした。
長い潜伏期間を経て、何故このタイミングで頭の中に振ってきたんだろう?
一義的には、文字通り高速道路を走っていたことと、1.5倍速という高速再生で音声を聴いていたことからの単純な連想ではあったんですが、ちょっと考えてみました。

車移動というエアポケット

京都市を拠点に、周辺の市、隣県の大阪・滋賀辺りを守備範囲に営業という仕事をやっていると、実際にモノを動かす仕事であることもあって、移動の9割は自動車での移動です。
この車移動というのが本当に厄介で、手と視覚が完全に運転という目的に奪われる時間は、総労働時間におけるエアポケットになってしまいます。
仕事を前に進めるための諸々を一旦停止させる上に、なまじそれなりの疲労感があるので、一日の大半が細かな移動の積み重ねでしかなかったとしても、何となく仕事した感がしてしまう辺り困ったものです。
運転中に残されたリソースは聴覚のみ。最初の内は割り切って主にNHK第一放送(この地域で聴けるラジオの中では一番面白いことをやっている率が高い)を聴いていましたが、読書が出来る電車移動に比べて圧倒的に思考の密度が低い。そこで、ある時期からポッドキャストで興味深い番組をiPodに落として聴くようになりました。まずこれ、フェーズ1。

ガラケー→スマホ

フェーズ2。
主にポッドキャストで聴いていたのが、TBSラジオの「Session22」という番組だったのですが、2016年の6月にポッドキャストの配信を全て終了してクラウド配信に切り替わるということになり、長らくガラケーユーザーだった僕はほとんどSession22を聴くためだけにスマホに乗り換えました。
スマホに乗り換えて使い出した「TBSラジオクラウド(現・ラジオクラウド)」というサービスは、とりあえず当面は従来のポッドキャストの代替品という位置付けでしたが、ポッドキャスト時代には視界に入ってこなかったTBSラジオの他の番組も聴くようになり、一時期すっかりTBSラジオリスナーに。
その内、楽曲などの著作物を配信できないという制約のあるラジオクラウドでは十分に番組が楽しめないというのが見えてきて、今度は全国のラジオがエリアフリー・タイムフリーで聴ける「radikoプレミアム」も併用するようになって、定期的に聴くコンテンツの幅が拡がりました。(TBSラジオとJ-WAVEの番組多め)
スマホのデータ通信量はほぼこの2つのアプリ(とSpotify)に独占されていて、1ヵ月5GBのプランでぎりぎり足りるか足りないかくらいで調整しつつやってきて、約2年。

携帯キャリア→格安SIM

フェーズ3。
今年の夏に長年使っていた携帯キャリアから格安スマホに乗り換えました。
毎月使える通信量が倍増し、月の支払いが従来の4割くらいの水準まで安くなりました。
こうなると、解像度を落とせば動画コンテンツを4G回線で視聴することにも躊躇がなくなる。そもそも、映像は見ずに音声しか聴かないので解像度は低くて構わないのです。
動画コンテンツまで選択の幅が拡がると、世の中には専門的な知見を無料で配信してくれる奇特な方がたくさんいらっしゃるもので、学習したいと思っている事柄をピンポイントで学習できるようになります。
加えて、つい最近YouTubeやニコニコ動画が1.25倍、1.5倍、2倍とかの高速再生に対応するようになったため、対談イベントとか講義の音声を本を読むくらいのスピード感で聴けるようになりました。
かくして、エアポケットであった僕の車移動の時間は高速再生の音声コンテンツで万遍なく埋め尽くされるに至りました。

マクルーハンの見た未来

で、そんなことを考えているさなかに読み進めているこの本です。

マーシャル・マクルーハンの本は今までにも何冊か読んだことがありましたが、この本は、マクルーハンが主に1960年代にテレビという新しいメディアを指して語った言葉が、現在のメディアとテクノロジーと参照して如何に本質を捉えて電子メディアの未来を予見していたかというようなことが書かれたもので、分かった気になっていたマクルーハンの言葉の本質の理解を深めることができます。まだ読みかけですけど。

この中に、マクルーハンがテクノロジーとメディアの発達と人間の知覚の関係性について視覚と聴覚を対比させることで説明したという話があります。

62年に出版された『グーテンベルクの銀河系』は、(中略)グーテンベルクの発明した活字印刷によって西欧文明がいかに影響を受けたかを扱うものだ。つまり活字印刷がそれまでの話し言葉を中心とした聴覚的な世界を終わらせ、印刷文字や直線的に配置され構造化した本のような視覚的なものに重点を置くようになって、物事とその記述が分離することで客観化するリテラシーを生んだが、それがテレビのような電子メディアの出現によって変化しつつあることを主題としている。
マクルーハンは、活字文化の弊害はずっと19世紀まで続き、それが電信という電子メディアの出現によって衰退し始め、1905年のアインシュタインの相対性理論によって決定的に次の時代に移行したと述べる。そしてこの電子メディアの時代が、活字文化や文字文化の前にあった聴覚や触覚を中心とした部族的社会を復活させるという論を展開した。

マクルーハンは、表音文字が発明される以前は、直接対象と触れることで得る感覚を中心とした「聴覚的」な社会だったのが、文字の発明によって書かれた記号と対象がはっきりと分離させるようになり「視覚的」な社会に移り替わった。と言っています。
ここで使われている「聴覚」という言葉は、文字通りの意味合いでも暗喩でもあると思いますが、敢えて字義通りにとると、冒頭に述べた僕自身にとっての「学習の高速道路」は、聴覚的に情報を得るための環境(PC・ガラケーからスマホへ、高速で安い通信環境、音声コンテンツの充実)が整ったことで、空白だった時間に大量の情報が流れ込んで初めて立ち現れた、と理解してみると腑に落ちます。

『ウェブ進化論』が発表された2006年はブログ全盛の時代で、インターネットから受け取る情報の多くは書籍並にまとまった文字情報で得ていた印象があります。そういう意味でネット文化はまだかなり「視覚的」でした。(でも2ちゃんねるは「聴覚的」だった)
ゼロ年代の終わり頃からTwitterが普及し始めて、長文を書いていたブロガーの多くが発信拠点をそちらに移していきました。短い文字数に限定されたツイートは、文字である限りは「視覚的」ですが、発言した先から時間の流れに押し流されて消えていく刹那的な感じはとても「聴覚的」です。
一方で、文字によるコミュニケーションが必ずしも求められないInstagramでSNSは更に「聴覚的」に。(写真は目で見るものですが、言語的な理解よりも先に身体感覚に訴える点がマクルーハン的文脈で言うと聴覚的。ややこしい…)そしてインスタよりも更に「聴覚的」なTiktokへ。
という感じで、インターネット上のコミュニケーションが聴覚(別の言い方をすると共感覚)寄りに変化しつつある気がします。ツイッターもインスタも大して使ってないし、TikTok名前だけ知ってるおじさんなのでテキトーな印象論ですが。

マクルーハンは、視覚的であることと聴覚的であることのどちらの方がより良いと明確には語っていません。
但しこの本では、マクルーハンの死後(1980年没)にどのタイミングのどういう文脈で彼が世間に再評価され、著作の再版が行なわれたのかなども詳しく書かれていて、マクルーハンが抽象的に語った言葉の解釈を様々な視点から検証できるようになっています。
再評価された例のひとつに、94年の再発本のイントロダクションを書いた編集者ルイス・ラップハムの話が紹介されています。そこでは聴覚に寄った社会から生まれる暴力について言及されていて、そこらへんの話は、炎上とかフェイクニュースとかヘイトスピーチみたいなものを考える上で示唆があります。

ちなみに、noteは使い方次第で視覚的にも聴覚的にもなりえるプラットフォームだという感じがします。
何となく受け取る印象としては、運営の中の人たちが聴覚的なメディアがもたらす暴力に意識的で、視覚と聴覚のバランスを少しの介入によって保っていこうという姿勢を持っているという感じがしています。

あんまりマクルーハン的な比喩を使い過ぎると文章の意味が取りづらくなってきそうなので、今日はここらで。
今回も途中で話逸れてる。

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