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デザインするのかされるのか

今年はどうも日々の記憶が曖昧で、2020年がもう半分経過しようとしていることにどうも現実感がない。
僕の住む京都では、4月18日に緊急事態宣言が発令されて5月21日に解除されたけど、発令前/宣言下/解除後の生活や仕事やそれらに対する価値観は、リアルタイムでは日々目まぐるしく変化していたはずなのに、振り返ってみるとすごーく色変化の少ないグラデーションのようで、なんだかひどくのっぺりしたものとして思い返されます。

その中にあって急速に耳にする機会が増えた言葉のひとつにDX(デジタルトランスフォーメーション)があります。
社会が強制的にオンラインで活動する必要に迫られて、その中にはポジティブな発見もあれば歪みもあって、いずれにせよこれまで十分に進んでいなかったデジタル化・オンライン化を社会全体で進めていかなきゃダメですよね…と。

世間ではリモートワークが拡がって、生産性やライフワークバランスの面でその効用が称揚されたりして、かくいう僕も4月下旬から5月上旬のほんの短い期間、その日の状況に応じて在宅勤務に切り替えるみたいな働き方を試していました。
働き方にせよ生き方にせよ、選択肢が増えること自体はとても良いことだと思いますが、僅かな期間でも自らやってみて感じたのは、通勤か在宅か働き方を自由に選べる人の存在は、現場にいかなければ仕事が出来ない人に直接・間接になんらかの負荷を掛けて成立しているんだという感触です。
小さな会社のメンバーひとりひとりの役割を取ってみてもそれを感じるし、社会全体を見渡せば明らかにそうした不均衡は存在している。

そんなことで、単にDXとかリモートワークとかを称揚する言説に対して懐疑的な気持ちを拭えないここ最近。
そんな中、強く感銘を受けた文章がありました。上記のような問題に直接触れている訳ではないのですが。

僕は全くその存在を知りませんでしたが、デジタル時代の人間の自律性を研究するアメリカの作家ダグラス・ラシュコフの10年前の著作の邦訳が出版されるタイミングで掲載された論考です。

このnoteのリンクから、邦訳が刊行(電子書籍のみ)されたばかりの『ネット社会を生きる10ヵ条(原題:Program or be programed)』を買って読み始めたのが今月初め。
そして、まえがきを読んだところでこれは関連性がありそうだと直感して、もう一冊の本を平行して読み始めました。
半年程前に買って積ん読本になっていた『我々は人間なのか?(原題:are we human?)』という本です。

この2冊、予想していた以上に響き合う内容で、今まさに考えるべき事柄に溢れていて、これは稚拙な筆でも何かを書き留めておかねばとひと月ぶりにnoteのエディタを開いたのでした。
とはいえ、いずれも大きな問題を多角的に捉えたこの2冊の素晴らしい本を正確且つ簡潔に誰かに説明することが自分に出来る気もしないので、ある種都合の良い解釈で2冊を繋ぎつつ、その中心的なエッセンスだけでも言葉に出来ればと思います。

デザインにリ・デザインされる人間

まずは『我々は人間なのか?』から。
この本のもとになっているのは、2016年の第3回イスタンブール・デザイン・ビエンナーレの展示だそうで、著者はこの展覧会のキュレーターであるビアトリス・コロミーナとマーク・ウェグリーの二人です。
とにかくキラーフレーズの多い本で、各章から一節ずつ拾って並べるだけでもその面白さが十分伝わりそうな気がしますが、第一章冒頭のこの一文にこの本の問題意識が凝縮されていると思います。

デザインは常に人間にとって役に立つものとしてその姿を現すが、その本当の狙いは人間をリ・デザインすることである。
つまりデザインの歴史は、進化していく人間の概念についての歴史なのだ。デザインについて語ることは、人間という種の状態について語ることなのである。  ※太字は原著

僕の浅薄な知識では、デザインという言葉の歴史はそれ程長くなく、18世紀の産業革命で大量生産が可能になり粗雑な製品が世に溢れたことに対応して生まれたものという認識でした。
ところがこの本で著者は、冒頭から火星人の目線で地球を見下ろし、インターネットや物流網によって世界中が複雑に繋がった様子や、難民の移動、気候変動、生物多様性の低下、オゾン層の穴までを全て人間という種がデザインしたものであると捉えた後、いきなり20万年前、人類が石器をデザインした時代まで時を遡ります。
著者が意図的に「デザイン」という言葉を拡大解釈していることは、第6章できっちりデザインという言葉が使われ始めた近代について書いていることからも明らかです。
こんなふうに、今まで「デザイン」という呼び名では捉えられていなかった事柄も含め、人類史上のあらゆる営みに埋め込まれたデザイン的な行為を、道具、身体、建築、社会といった具体的な事象の中からあぶりだしていきます。
20万年前の描写から始まった本は、ソーシャルメディア時代の人間について書かれた「2秒間のデザイン」という章で終わります。

技術の、メディアの、デジタルの「偏向」

ダグラス・ラシュコフの『ネット社会を生きる10ヵ条』は、主にインターネット以降の世界について、この世界をより善く生きる上で何を考え、どうデジタル技術と付き合っていけば良いのかを書いた本です。
2010年に書かれた本ということですが、内容に古いと感じられるところは何ひとつありません。むしろ、仮に原著の刊行当時に読んでいたとしても、2020年の今の方がより卑近な問題と感じられる点が多いのではないかとすら思います。
インターネット以降の…といっても、この本が捉えている射程は直近の20~30年という短いスパンだけではありません。
本文冒頭、こんな文章から始まります。

人間が言葉を獲得したとき、聞くことだけではなく、話すことも身に付けました。文字を獲得したとき、読むことだけではなく、書くことも身に付けました。そして、世界がデジタルへと進んでくると、それを使う方法だけではなく、プログラムを作る方法を身に付けなければならなくなりました。

『我々は人間なのか?』と同じく、現在向き合うべき問題を考える前提として、ラシュコフも「言葉の発明」や「文字の発明」という人類の起源まで遡って考えます。

この本の中で最も多く使われている単語が「偏向」です。
あらゆる道具や技術、メディア(媒介)にはそれぞれが元来持ち合わせている偏向があり、その偏向をきちんと理解することで初めて、人間は意図を持ってその技術やメディアを使いこなすことが出来る。これが、10の例を挙げながらこの本が指南していることの核です。

我々はデザインする側か?される側か?

『ネット社会を生きる10ヵ条』の原題は "Program or Be Programed" (=プログラムするかされるか)です。
再度、本文から引用します。日本語版刊行に際して、著者本人が日本の読者に向けて書いた文章の一部です。

私がこの本で述べたかったのは、たいていの技術が、もともとは単なる道具だったということです。最初は私たちのニーズを満たすために存在していて、私たちの世界観や生活様式と矛盾するものではありませんでした。それどころか、人間の従来の価値観を表現するために、その技術を使っていました。飛行機を発明したおかげで、空間を越えて声を届けられるようになりました。初期の段階では、世界に与える影響は、その技術の本来の目的を達成することでした。
しかし、技術が世界に浸透してくると、私たちは、世界を技術に合わせようとします。道路を横断するときには、自動車にはねられないように注意する習慣ができます。送電線を敷設するために、森の樹木を伐採します。あるいは、今まで家族の会話に使われていた部屋をテレビに明け渡します。このように技術は、調整や妥協を押し付けてきます。

つまり、ここで言われているのって「デザインは常に人間にとって役に立つものとしてその姿を現すが、その本当の狙いは人間をリ・デザインすることである。」ってことですよね。

この2冊の抱える問題意識は、こんなふうにして繋がっているように見えます。

そして、両者を繋ぐ媒介(メディウム)としてもう一者挙げておきたいのが、マーシャル・マクルーハンです。

メディアはマッサージである

黒鳥社・若林恵さんによる『ネット社会を生きる10ヵ条』の解説にも、ラシュコフの考えとマクルーハンの「メディアはメッセージである」というテーゼとの関連は言及されていて、『我々は人間なのか?』の方にも、本文中でまさにマクルーハンの言葉が引用されています。後者に関しては、全編に亘って象徴的なビジュアルをページいっぱいに配したブックデザイン自体がマクルーハンの『メディアはマッサージである』のオマージュのようです。

さて、引用にまみれたこのnoteは、ソーシャルメディア時代に適応して(リ・デザインされ)自分の言葉で語れなくなった人間を象徴するようですが、構わずこの本からも引用します。

あらゆるメディアはわれわれのすみずみにまで完全に作用する。メディアがもたらす帰結は、個人的にも政治的にも経済的にも美的にも心理的にも道徳的にも倫理的にも社会的にもすみずみまで浸透するので、われわれのあらゆる部分が例外なしにメディアによって接触され、影響と変更を被ってしまう。メディアはマッサージである。メディアがどのように環境として作用するのかを知ることなしには、社会的・文化的変化はいかなるかたちであれ不可能である。
あらゆる
メディアは
人間の
なんらかの
心的
ないし
身体的な
能力の
拡張
である。

※太字は原著

マクルーハンについては、以前にも書いたことがありますが、文字の発明、活版印刷の発明、映画の発明、電話の発明、テレビの発明、と人間が新しいメディアを発明するたびに社会や人間の在り方がその影響を受けることを指して、メディアによって伝達される情報・コンテンツではなく、メディアそれ自身がメッセージであると言いました。
更にそのメッセージが人間を取り巻くあらゆるものに浸透し、揉みほぐし、形を変えてしまうことを示唆したのが、引用の「メディアはマッサージである」です。

これもやはり「デザインは常に人間にとって役に立つものとしてその姿を現すが、その本当の狙いは人間をリ・デザインすることである。」のパラフレーズです。(順序が逆か…)

僕は本当にデザイナーではないのか?

まだまだ各書籍から引用したいフレーズは数えきれないほどありますが、こんなところにしておきます。
内容に関する興味を喚起するような紹介文になったかどうか分かりませんが、興味を持たれた方はぜひとも読んでほしいです。
いずれも多くの示唆に富みますが、特に『ネット社会を生きる10ヵ条』はライトに読めてめちゃくちゃ実践的だと思います。僕はここまでの文章で、ラシュコフが挙げるデジタルの持つ具体的な偏向について一言も触れていませんが、この本の読むべきポイントはむしろそのひとつひとつの偏向とその対処法を知ることにあります。

冒頭の話題に戻ります。

「リモートワークという働き方を当たり前に」「オンライン教育を全国に」こうした声が一面ではとても重要な論点でありながら、それが持つ偏向によって社会が人間がどうリ・デザインされるのかという視点抜きに進めてしまうとすれば、それがいかに危ういことかは、この2冊(+1冊)を読むと見えてくるものがあります。
じゃあどうリ・デザインされる可能性があるのか。それを考えるのはとりあえずこの文章の主眼ではないし、そう易々と答えを出せるとも思いません。


ところで、デザインに関する話題を過去にもいくつか書いてきましたが、そういう場合はいつも「自分はデザイナーではないのだが」と前置きしてしまいがちです。実際、職業としてデザイナーではないので間違いはないはずなのですが、こんなふうに書くたびに自問します。

自分はデザイナーではないと、本当に断言できるのか

ソーシャルメディアに文章や画像を投稿する僕たちはみんな卑小なデザイナーである。そのことを自覚すれば、同時に更に大きなものにデザインされてしまう対象でもある我々自身に気付くことが出来るかもしれません。

しつこくも、最後にもう一節『我々は人間なのか?』から引用して終わります。

ソーシャルメディアの到来で人は皆作家となり、芸術家となり、セルフデザイナーとなる。(中略)
自分自身をデザインすることは、個人による独創的な主題でもなければ、集団によるものでもない。それは常に壊れそうな未完の行為であり、自分だけの新たな幻想を手にいれる見返りに、あらゆるプライバシーを犠牲にしてはビッグデータの作成に寄与しているのだ。




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