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夢と冒険、そして希望とイマジネーション

一年に一回の恒例行事、クリスマスを少し過ぎた頃のディズニーリゾート。
もう覚えていないくらい本当に小さな頃から、毎年毎年、親戚家族と一緒にだったり家族4人だったりでディズニーに連れて行ってくれた。
それも私達のディズニーは決まって泊まりで、毎年異なるホテルに一泊していた。
私は覚えていないけれど、おそらくディズニー付近のホテルはほとんど泊まったことがあるらしい。
さらに毎年バケーションパッケージというシステムを使っていたので、ファストパスをそもそも持っていたり、ディズニーグッズがたくさんもらえたり、ポップコーンのチケットがついていたり、かなり贅沢にディズニーを楽しませてもらっていた。
ごくごく平凡な家庭だから、贅沢とは言っても、他に飛行機に乗って出かけたり海外に行ったことはないのだけれど、そんな一年に一回のディズニー旅行が大好きだった。

最も古い記憶は、ベビーカーに乗って見たエレクトリカルパレードのキラキラした恐竜が大きくて怖かったこと。
多分あれは、トイストーリーに出てくる恐竜の人形、レックスだったんだと思う。
確か鼻から息を吹いて、怖くて怖くて泣いて困らせた気がする。
多分2,3歳の頃だったと思う。
どうして覚えているのか分からないけれど、その頃で覚えてるのはこのレックスと、保育園でブランコから落ちた時のことくらい。

私は、キャラクターが大の苦手で、ニコニコ嬉しそうに写真をお願いしに行く姉とは対照的に、話しかけるのも握手をされるのも一緒に写真を撮るのも写真を撮ったあとに頭をぽんぽんされたりぎゅーってされたりするのも、すごく嫌だった。
だからキャラクターと一緒に撮った写真は姉だけのものばかりだし、私が写っていても泣いてるか不貞腐れてる、可愛げのない子供だったと思う、本当に。
ただキャラクターが嫌いだったわけではなく、人見知りで恥ずかしがり屋だったのでみんなの前で写真を撮られたり話しかけにいったりしなくちゃいけないのが嫌だったんだと思う。

小さな頃から、次の日に楽しみなことや緊張することがあると寝られない人間だった。
ディズニーの前の日はいつもより早くベッドに入るのに、アーケードを出たキラキラしたシンデレラ城にプーさんのティガーのジャンプのところ、インディージョーンズのパコさんの声、思い出しては想像して緊張したり幸せになったりで、いつも寝られなかった。

まだ外は真っ暗な中、父に「さあディズニー行くよ!」と起こされると、まだ温いベッドから這い出て、お気に入りの服を持ってリビングに向かっていた。
テレビをつけると、アニメやテレビショッピングがやっていて、なかなか見ない暗い窓と相まって特別感が嬉しかった。
今はやっとテレビショッピングまで終わってから眠りにつくなんてことも増えちゃったな。

運転は決まって父だった。
出発の時何度も鍵が閉まっているか確認しに行くのは母の癖。
姉は車が動き出すといつの間にか寝ていて、父と母と私と、暗くてガラガラの夜道の中をゆっくりと進む気持ちの良い空気がお気に入りだった。
私が夜のドライブが今でも好きなのは間違いなくこの特別感を思い出すから。

海老名のサービスエリアに着くと、父と母と姉と3人で、トイレ休憩と朝ごはんを買いに行っていた。
私は眠くて1人で車でよくお留守番していた。
遠出する時はいつもそうだった。
帰ってくると渡されるのはいつもメロンパン。
そんなに好きなわけでもないのに絶対にメロンパン。
だからたまに、私用にチョココロネで姉がメロンパンを買ってくると、メロンパンが良いとごねて、結局最後は姉が譲ってくれるのだった。
絶対にメロンパンなのは姉がメロンパンが好きだから。
私はいつも姉のまねばっかり、姉のものばっかり欲しがるからだった。

到着すると寒い中4人で開園前の入り口にならび、まだかまだかと期待を膨らませた。
開園すると同時に父は飛び出し、ファストパスを取りに、母と姉と私は3人でゆっくり歩いて並びに行ったりすっかすかの人気のないようなアトラクションに行ったりか、3人でファストパスを取りに行っている間に父が遠くのアトラクションに並びに走ったりか、がいつも。
(危ないので園内は走らないように!!笑)
これが当たり前だったのって、父はちゃんと父で母はちゃんと母で、愛だったんだなあと思う。

母と姉がジェットコースターが苦手で、それにならったからか私も苦手だった。
毎年行くのに、乗るアトラクションは基本的に「落ちない?」「落ちないよ」が合言葉。
結局何かしらは騙されて乗らされるのだけれど、カリブの海賊の最初の軽い落下でさえ嫌いだった私は、記念写真には姿が写らないほど蹲って乗っていた。
いつからかジェットコースターは得意になっていて、むしろ好きで並んででも乗りにいくようになった。
母が意味がわからないと言っていたような人間になった。

だけどやっぱり、これに乗らないと帰れない!というアトラクションはランド、シーそれぞれにひとつずつある。
イッツ・ア・スモール・ワールドとシンドバット。
ジェットコースターが苦手だった私が1日に何度も何度も乗ったアトラクションの2つ。
どちらも、姉が五感を研ぎ澄まして発見したことを逐一私に教えてくれた。
どちらが母と乗るか父と乗るかの論争で待ち時間を過ごす他のアトラクションとは対照的に、この2つは4人で1列に並ぶことができたから、姉と隣で珍しく仲良く乗ったからだった。
そうしてこの2つは同時に、おそらく母と父が休まる唯一のアトラクションだったのだと思う。
何度行ったって明るい気持ちになって曲が頭の中でぐるぐるするようになる。
大好きなアトラクション。

ポップコーンはカレーとブラックペッパー。
バケットは1番最初に行った時のをずっと使った。
冬限定のミニーちゃんの耳のあったかいかぶりもの。
姉の柄が可愛くて翌年に買った同じ柄の耳当て。
同じ柄のかぶりものを被った雪だるまミニーちゃんのぬいぐるみ。
名前をつけて抱きしめながら寝ていた。
マジックランプシアターやリトルマーメイドは私達には必須アトラクション。
ついでに今はなきミクロアドベンチャーやストームライダーも。
なぜか乗れたスペースマウンテンに、心臓が鳴り止まないタワー・オブ・テラー。
小2の時初めて友達と行ったディズニーで迎え入れたシェリーメイの人形は、どこに行く時も一緒。
工場みたいなバーガー屋さんに、キャラクターがやたらと寄ってくる恐怖のショー付きのご飯屋さん。
身長が足りなくて渡されたチケットに、ギリギリ越してつけてくれたバンド。


大好きな景色と素敵なおもてなしをしてくれるキャストさん達、夢で溢れるあの特別な空気、私が唯一、長期間言い続けた将来の夢はディズニーのキャストだった。
それも清掃員でよかった。ゲストに笑顔を届ける仕事がしたかった。
ディズニーに住むことも夢だった。
変に現実的だった私は、飽きた授業時間に、いくら稼いだらシーの住宅街の一軒を本当のお家にできるのか、とか、もしもシーに住んだらスーパーとかどこに買い物に行くんだろう、とか、そんなことをひたすら考えていた。



家族4人で行ったディズニーは、いつが最後だっただろうか。

いつの間にか私のディズニーは友達と行くものになり、部活で行くものになり、恋人と行くものになっていた。
友達と行くディズニーも、部活のみんなで行くディズニーも、恋人と行くディズニーも、かつての私が夢に描いたディズニーであって、それぞれとっても幸せ。

だけどやっぱり。
私にたくさん夢を与えてくれたディズニーは、家族と行ったディズニーだった。
それはつまり、父や母や姉が、または周りの親戚が、精一杯の愛情でくれた夢だったということなのだと思う。

これからも、私のディズニーは変わっていく。
夫とのディズニーになったり、母としてのディズニーになったり、ばあばじいじと船に乗られるディズニーになったり、義理の兄と子守をするディズニーになったりするかもしれない。

だけれどそんな時もずっと変わらずに、愛情をたくさん注いで、注がれて、そうして夢を与え、与えられるディズニーにしていようと思う。

私の、夢の話。

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