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35歳にだけはなりたくなかった。

はじめて『魔女の宅急便』を見たのは、34歳のときだった。
正確には「2度目」の鑑賞だったのだけれど、
1度目は、まだ何の分別もつかない4〜5歳のころだったと聞いているから、やっぱりわたしの体感では「はじめて」であった。
なんとなく、
「魔女の宅急便ぐらいは見ておくか」
と思い立ち、リビングにチンと座って見たのだ。
金曜ロードショーだった。

のどかな風景。愛嬌のあるキャラクター。
わたしはすぐにこの物語が気に入った。

けれどもストーリーの中盤で、
主人公・キキに仕事の依頼をした老婦人が、
孫娘のための贈り物として「ニシンのパイ」を作る、という例のシーンと出会ってしまう。

キキの手を借り、調子の悪いオーブンを使って、
大変な苦労をしながら、
なんとか老婦人が焼いた「ニシンのパイ」。
ようやく完成したそのパイを、今度は大雨のなか、少しでも濡れないようにとキキは大切に気を遣いながら運ぶ。
運んだのだけれど、
届けた先の孫娘に、こう言われてしまうのだ。
「あたしこのパイきらいなのよね」
このことに、キキは大きなショックを受け、
その後、寝込んでしまうのだった。

ショックなのは、見ているわたしにしても
同じことだった。
けんもほろろなその台詞のシーンで、
「こんな物語だったのか……」
と、おいおい泣いてしまう。
大粒の涙がだらだらと流れて、
なんだか、どうにもたまらない想いになった。

それは、ただおばあさんが不憫!というのとも、
キキが気の毒!というのとも、ちょっと違う。
みんなの気持ちがわかるのだ。
孫娘にしても、そう言いながらも
ちゃんと受け取っているのだから、まったくの悪いヤツでもない。
「そういう気持ちって、あるよね」
とそれもそれでわかってしまう。

もちろん言葉にならないキキの傷についても痛々しかった。
「感謝をされること」ばっかりじゃあ、ないこと。感謝なんかされないことの方が、うんと多いこと。
「仕事ってなんだろうね」ということも含めて、
やりきれない想いがそこに残るのだ。

そして、わたしには
「この感じ、なんだか知っているな」
とどこが懐かしい想いが、
すっと鼻の先をかすめるような感覚があった。
思いもよらぬ人の気持ちに触れて、
寝込んだ経験がわたしにもあったのだ。
それは、7年前のことだった。


当時、メイクやコスメに関わる仕事をしていて、
わたしはその仕事をとても気に入っていた。

はじめて化粧品を買ってもらったときの気持ちを
ずっとずっと覚えている。
あの、ルンとした気持ち。
「自分をきれいにする」ということの嬉しさや、
「きれいになりたい」と願う気持ちの可愛さを、
わたしはとても大事に思っていた。
その年の春に亡くした母の棺にも、真新しいアイシャドウを入れたほどだ。
コマーシャルを見て、
「わあ、きれいな色」
と母がベッドで口にしていたから。
「きれいになりたい気持ちって、ええよなあ」
そんなふうに、どんなときもわたしは信じていたのだった。

けれどその年の夏のこと。
いや、夏も終わりに差し掛かっていたかもしれない。職場で、
「インターンシップのメンターとして大学生を迎える」
というイベントがあった。
きらきらとした二十歳やそこらの学生たちのグループワークで「社会人の先輩」としてアドバイスをする、という役割をわたしは担ったのだった。
みんなコスメが好きだといいなあ、そう思っていた。

担当したのは、意外にもずいぶんと男の子が多いグループで、男の子が5人に、女の子が1人。
みんな、初々しさというよりも
どちらかといえば「ハツラツ」とした印象で、
自分たちがこれからの時代を作っていくんだ!
というきらきらとした気概を感じた。

「美容に関わる、新しい事業を考える」
というのが、その年のテーマで、
小部屋に入ると、みんな真剣な顔をして
ホワイトボードにあれこれとメモをとりながら、
話し合っているのだった。

そして「いいね」「なるほどね」なんて、
小さく相槌を打ちながら、
しばらくじっとその様子を見ていたところ、
ホワイトボードに文字を書いていた学生から、
わたしは唐突に、思いがけない質問をされたのだった。

「あれ?30歳を過ぎても、35歳を過ぎてもみんな化粧は続けますか?」

驚きのあまり「へっ?」と一瞬固まってしまった。
なんとか立て直し、
「いや、年齢は関係ないと思うけれど」
というようなことを返すと、今度は
「いや、している人がいるのはわかっているんですけど、みんなしますか?」
「結婚しても、女の人って、全員化粧を続けるんですか?」
こう言うのだった。
「あのね、化粧というものはしている人としていない人がいて、年齢や結婚とは関わりがないと思います」
わたしはこのとき、ちょっとムッとした表情をしていたかもしれない。

「それって、なんでなのかな?と思って——」
その子は、とても真っ直ぐな目をしていて、そのとき、何かを揶揄しようとしているのではないことが、改めてわかった。
わかったけれど、わたしには言いたいことが山ほどあったのだ。
「なんでって……、逆にどうして年齢で区切ろうと思ったの?」
と問うてみれば、
「良く見せたいと思って、女性は化粧をするんじゃないんですか?たとえば結婚したら、不要になりませんか?」
そんなふうに言う。
わたしはまだ未婚の27歳であったけれど、
なんだかそのとき泣きそうな気持ちになった。
「旦那さんに良く見せようと思ったって、友だちや職場の人に良く見せようと思ったっていいと思うけれど」
「別にいいですけど……。」
「それに、誰かに良く見せようと思うばっかりじゃなくて……。じゃあ、◯◯(その学生)さんのお母さんはどうですか?」
「うーん……してるのかしてないのか、ピンとこないです」
「ピンとこないって……」
「そこを見ていないし」
「……」
唯一の女子学生の方に目をやるけれど、
その子がこちらを見ることはなかった。
「若いときよりもあんまり意味はないかなって思っただけなんです」
その男子学生は、少しバツが悪そうにしていた。
「……とにかく、年齢も結婚も関係ないし、実際に30代、40代の人の方が美容にかける1年の金額は高いんです。そこも事業を考える上で、重要な前提だと思います」
「なるほど……」
そこで、なんとかその話は終わった。
その子に特に悪気はなかったかもしれないのに。
嫌な言い方、表情をしてしまったかな、とわたしの方が気にしてしまった。

けれどもその夜。
駅からマンションに帰る暗い道で、わたしはぼろぼろと泣いたのだった。
思いもよらぬ価値観に触れて、ちょっと面食らってしまったのかもしれない。
「いつまでもきれいになりたい、きれいでいたい、って思ったっていいやん」
そう思った。
「年齢で区切ることないやん……」
今度は、母のことや歳上の先輩の顔を思い浮かべて、そんなふうに悔しむのだった。
いつも小綺麗にしていた母とはなんだったのか。
コスメを心から愛する先輩たちはなんだというのか。
人に良く見られたい、と思うことも、それとは関わりなく、好きな自分でいたい、と思うことにも、年齢は関わりないはずだ。
まずもってメイクって、そんなことじゃあない。
もちろん結婚の有無だって関係がない。
人はどんな役割を担おうと、いくつになろうと、
身なりを気にすることやきれいになることに関して自由なはずだ。
それを信じる心にはもちろん揺らぎはなかった。

けれども、本当は。
けれども実は心のどこかに、彼の言わんとすることが、なんとなく、ほんの少しわかってしまう自分が実際にはいたのだ。
それが、とてもとても嫌だった。
10代やそこらの子の、
「30歳になっても、35歳になってもきれいになることに意味あるの?」
という素直で残酷な気持ち。あの頃の感覚。
いま27歳のわたしはもちろん思わない。
けれど心の奥の奥では憶えがある、ピャッと絵の具でも散らしたような
鮮やかで悪気のない、とてもとても酷い気持ち。
「30歳になっても、35歳になっても未来はあるんだろうか?」
そして、そんな気持ちをどこかで思い出しながら、もうあと数年で30歳を迎える自分のサンダルの足元を見る。
「30歳を超えると、35歳を超えると、そんなふうに思われてしまうのか」
そう思うと、今度は不安で、怖くて、恐ろしくて。胸が苦しい、という言葉では言い足りない心地を味わう。
早くひとりきりの部屋に帰りたいような、帰りたくないような。
わたしの大好きな仕事まで、ちょっと絵の具で汚されてしまったような。
なんだか抱えきれず、得体のしれない不思議な気持ちがした。
そんな夜があった。

『魔女の宅急便』のあのシーンを見て、
思いがけず、わたしはそんな日のことを思い出していた。
そして34歳のわたしは気づく。
「あの頃から呪いにかかったのか」と。

あれからというもの、30代、とりわけ35歳になることをわたしはとてもとても恐れてきた。
もしかすると、結婚をすることだってどこかで恐ろしく思っていたのかもしれない。
そんなわたしが34歳で結婚することを選び、
「そうか、来年には既婚の35歳になるのか」
と、やっぱりとてもビクビクとしていた。
なんだか、今のうちにあれもこれもやっておかなければいけない気がして、こうしてしっかりと『魔女の宅急便』を見たりもしたのも、
よくよく考えればその一端かもしれなかった。
とにもかくにも、いつも気が焦り、
漠然とした不安が付き纏うようになったのだ。


もちろんこの7〜8年で時代の価値観はずいぶん変わった。
今やメイクに、年齢も性別もない。
美を求めることにも、あの頃よりは寛容な空気が流れているし、年齢で何かを縛るおかしさに人はずっと敏感になった。
そこに疎い人も、若ければ若いほど、うんと減ったように思う。

けれど、あのとき傷ついて恐ろしいと考えはじめてしまったわたしの価値観は、心底ではあまり変わらなかったのかもしれない。

そんなわたしが去年の夏、35歳になったのだ。
その直前に見た『魔女の宅急便』のおかげで、
やけに、くっきりはっきりとあのときの気持ちを思い出してしまっていたし、晴々とした気分とは程遠い誕生日となった。
35歳になってみても、35歳を迎えてしまった自分がとてもとても恐ろしかったのだ。

35歳を過ぎても、未来はあるに決まっているのに。

けれども、それからの1年間は、なんだか「想像していたの」とまったく違っていた。
わたしにとってそれは、とても意外なことだった。

たとえば、34歳ではじめた結婚生活は、1年やそこらで慣れるものではなかった。
病院ではこれまでとは違う名前で呼ばれ、料理のレシピはいつだって「2皿分」のところを見るようになった。
使っていないのに汚れるカップ、
洗っていないのにピカピカになっているお風呂。
そのどれもがわたしにとって、とてもとても新鮮だったのだ。

それに今年からは新しい会社に入り、はじめての仕事に悪戦苦闘することにもなった。
「おしえてください」
とお願いして、先輩におしえてもらうたび、自分のなかにまた新しいページができるような心地がした。
まだまだ「わからないこと」「教わること」でいっぱいなのだ。
こんなこと、新しい環境に身を置かなければ知らなかった。これまでの環境から、自分はすっかり「教える側に回ってしまったのだ」とばかり思っていたから。

それだけじゃない。
はじめての人間ドッグ。
はじめてのお節作り。
はじめて食べられるようになったパクチー。
はじめて訪れて大好きになった場所、前橋。
はじめてもらった、芍薬の花束。
はじめてマスクを外して、見た笑った顔。
はじめて真剣に見た「タイタニック」。
はじめて自分たちを祝うためだけに集まってくれた人たちを見た結婚式。

どれもこれも、知らないことばかりだった。
知ったような気になっていたことも本当に多くて、「まだまだこんなにあるのか」と日々はずっと忙しかった。

もちろん眩しいことばっかりじゃない。
体力は本格的に落ちてきたように感じるし、人間ドックの結果は、なんとコレステロール値まで高かった。
それに「ああなりたい」「こんなことがしたい」といつも膨らんでいた胸は、少し萎んでしまったように感じる。何かに強く憧れるにもエネルギーが必要だ。それがどうにも枯渇した。「今」を必死で守ろうとしている。
また、「あんなふうになれたら!」と見上げることができるようになるのかなあ。
それは今はわからない。

ただ、たしかなことは。
35歳も意外と楽しかった、ということだ。
そんな幸先のいいスタートは、わたしをずいぶん励ましてくれた。
「本当の大人」が始まったような、その始まりにようやく立てたような、そんな不思議な心地もしている。

それに相変わらず、わたしはやっぱり洋服もコスメも大好きで。
もちろんそれをちっとも恥ずかしいなんて思わない。意味はあるのか?と問われれば、それらに深い意味なんてない。
着たいから着るし、したいからする。
誰かから「意味はあるのか?」と思われていたって結構。35歳だもの。もうわたしはあのときのように飴細工ほど繊細な心の持ち主じゃない。
それを少しさみしくも思うけれど、これが生きていくということなんだ。
そんないくつかのことが、わたしにもようやくわかりかけてきた気がするのだった。

そしてあと数分で、そんな1年も終わる。36歳になるのだ。
どんどん強くなる心も、どんどん弱くなる体も。まだまだこんなものじゃないと感じているし、明日からだって、うんと楽しみだ。
そこには、カケラも嘘が混じらない。
びくびくするのは、もうやめようと思う。
人生まだまだじゃないか。
大人を舐めてもらっちゃあ困るのだ。


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