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「さんかくの家には、父もいた。」#01 神様のテスト篇

パソコンに打ち込む文字のように、「前回のつづき」からまた同じ調子で進められるといいのに。
人間関係はそうもいかないから厄介だ。
「なんだか、親しくなれてきたぞ」「うまくいっているぞ」という関係性が、時として、時間を経ることでリセットされてしまうことがある。

たとえば、わたしと父がそうだ。

就職で上京するまでの21年間。のどかな兵庫県の一軒家で、わたしは父と母と暮らしていた。
わたしが抜けて、夫婦は引っ越し、母を亡くして、いまは東京と奈良にそれぞれ一人ぽっちだ。
これといった共通の話題もないせいで、なんだかいつもぎこちない。

数年前のわたしの入院をきっかけに、すこしは距離が縮まった気がしていたけれど、思えばあれは、高熱がわたしに見せた幻だったのかもしれない。

しかし、それはいったいなぜだろう。
かつての21年間、わたしたちは同じ屋根の下、たしかにともに暮らしていたはずなのだ。
大好きな母との思い出の、その画面の端っこに、きっと父も映っていたに違いない。
もしかするとそれは、米粒のように小さな脇役だったかもしれないけれど。

あの、恋しくて仕方ない「さんかくの屋根の家」には、間違いなく父もいた。
そんな父との数少ない思い出を、記憶の奥底から「よいしょ」と踏ん張りひねり出して、綴ろうと考えるようになった。
ちょっとぐらい、父を近くに感じられるかもしれないし、いつかそんな父が気づいて読んでくれればいいなと思う。

***

神様のテスト 篇

多くの子を持つ親と同じように、かつて母は「この子は特別なのかもしれない」と信じていた。

全国模試の国語でわたしは100点をとった。そして、「総合順位8位」という成績表を持ち帰ったのだ。

上に7人もいて、なにが特別なのか。

そう言われればもちろんそうなのだけど、とにかく母は、苦手なことの多いわたしに一筋の光を見つけたようで、きらきらとした眼差しで
「ゆかちゃんは、お勉強すき?」
と尋ねた。わたしは
「もっとスタンプもらいたい……」
と答える。学習塾の先生は、
「ゆかちゃんは、きっと特別伸びる子だと思います!」
と言いながら、ノートに並ぶ「よくできました」のスタンプを母に見せつけた。
小学校1年の「学習塾体験教室」でのできごとだ。

以来、わたしの小学校6年間は、なにをしていても常に「お勉強」がすぐ横を付いて回った。
そして、あれよあれよという間に「中学受験」をするコースに進んでしまう。

もっとも、母は「本当にいいの?お友だち同じ学校じゃなくなるんよ?」「続けるの?」と何度も聞いてくれた。
しかし、わたしは「もっと金色のシールもらいたい……」と言って、のんびり粛々と「お勉強」を進める。

母はこのとき、わたしに異常な収集癖があることをまだまだ知らなかったのだ。

そうして迎えた、小学校最後のお正月。
小さな事件は起こった。

その冬は大変な寒さで、母は風邪をこじらせ寝込んでしまっていた。
受験を控えたわたしに移すまいと寝室を締め切って、コンコンと咳を続けている。
そして、消え入るような声で
「お父さんに初詣でも連れてってもらったら?テストうまくいくように、絵馬かお札(おふだ)かお守り買ってもらっておいで」
とわたしに言う。
「うん、わかった」
本当はちっともわかってないのだけれど、わたしは父に、いつもお参りする神社に連れていってもらった。

ふたりで訪れるのは、はじめてのことだ。

「ほんで、お母さんはなにを買うて来い言うてたんや?」
父は、人の話をこれっぽっちも聞かないことで親戚中によく知られている。
「なんか……、“おふだ”みたいなこと言うてた」
「おふだ?どっかに貼るんか?」
「うーん、ちゃんと聞いとけばよかった」
遺伝だ。
「神社の人に聞いたらええんや」
袴を身につけた、年配の男性に父は尋ねる。
「すんません、もうすぐ子どもが試験受けるんですけどね。……どないしたらええですかね?」
父は、考えなしに話しはじめることでも知られている。
「それは……ゴ キ ト ウですかね?」
「ああ、そしたらそれください」
「それではあの列にどうぞ」
わたしたちは案内された列に並ぶ。そして父は自慢げに
「わからんときは、なんでも聞いたらええんや。次からは、ゆかちゃんも、こうしたらええ」
と言う。そんなものかと思って、「わかった」とだけ答える。

ゴ キ ト ウって何やの?」
わたしには、はじめて聞くその言葉がやっぱり気になる。
「あの人、そない言うてたか?なんか木()の……フダやろうなあ」
「おふだ?」
「そんなようなもんやろう。お母さんはなんて言うてたんや?」
「なんて言うてたんやろうか」
「お前はすぐに忘れるなあ。勉強はおもろいんか?」
「うーん……、テストで80点以上やったら、金色のシールもらえるねん。それもらって、貼ってくのが好き」
「ふうん。好きなもんがあるのはええこっちゃ」
収集癖も、実はこの父譲りなのだ。母と出かけた映画の半券をひとつ残らず取っているような人だ。

ようやく、仮設の受付場所のようなところにたどり着き、父は、ジーンズの後ろポケットから財布を取り出した。
「1万円をお納めください」
「……ああ、一番安いやつでええんですわ」
「1万円からとなっております」
「そうですか……」
父は戸惑いながらも、仕方なしに、1万円を支払う。
「お隣からどうぞ」
顔を見合わせ、すぐ隣で靴を脱いで、階段を上がる。
「なんでこんな高いんやろか」
父に尋ねると、
「お母さんは、ほんまにこれって言うてたんかいな?」
ふたりは、何に支払い、どこに向かっているのかさっぱりわかっていない。
そして、登りきって奥へ通され、ようやくおおよその事態を把握する。

「これは、あれや。拝んでくれはるやつや」
「おふだもらえる?」
「もう、おふだのことは1回忘れとき」
「わかった……」

そして、ゴ キ ト ウは始まった。

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神主さんは、いま思えば、祝詞(のりと)をあげてくれていたが、そのときのわたしは何が起きたのかさっぱりわからないまま、父の真似をしてただただじっと座っていた。
そして、何よりも戸惑ったのは、神主さんが

ナカモト ユカの〜」

と言ったことだ。
わたしの名前は「ナカマエ」であるのに、なぜ「ナカモト」と呼ぶのだろうか、と不思議だった。
神様にちゃんと伝わったのだろうか。
このままだとナカモトユカさんが合格してしまいそうだ。
それが、なによりも心配だった。

ゴ キ ト ウが終わって、わたしたちはあまり喋らず、ただ黙って元来た道を帰った。この時にはすでに、「おそらく失敗してしまったのだろう」ということが、それぞれの胸の内にきっとあった。
そして、家の屋根が見えてから、ようやく、わたしはそろりと父に尋ねる。

「神主さん、名前間違えはったん?」
「…… ナカモト、言うとったなあ」

父にしては珍しく、神主さんの話は聞いていたようだ。

「大丈夫なんやろか…1万円もしたのに……」
「ゆかちゃん、名前のことは、お母さんには内緒にしとこか」
「なんで?」
「風邪でしんどいのに、かわいそうやろ。『バッチリ拝んでもろた』て言うたったらええ」
たしかに、母をがっかりさせるのはかわいそうだと思った。
しかし、父はおそらく金額も伏せておくつもりだったのだろう、と今ならわかる。“頼まれもしないことに大金を使ってしまった”ことの隠蔽を図ろうとしていたに違いない。

それでもわたしは不安で仕方なかった。
「違う人の名前で意味あったんやろか?」
いじけるように父に問う。
「苗字がちょっと間違うてるくらいで、聞いてくれへんような神様は、ケチの神様や。ちょっとくらい間違うてても、わかるやろ。それが神様や」
「試したんかな?」
「せや。たまには神様もテストせなあかん。シール集めなあかんからな」
「ふうん」

こうして、わたしたちは母のいる家に戻り、
「お守り買ってもろたん?絵馬に“合格できますように”って上手に書けた?」
と尋ねられ、
「バッチリ」
「バッチリ」
とだけ答えながら、「やはり違ったようだな」とぼんやり思っていた。
唯一買って帰ったベビーカステラは芯まで冷えていて、それをオーブンで焼いて、黙ってもぐもぐとふたりで食べた。
ゴ キ ト ウはお腹が空くのだ。


そして数ヶ月後の、合格発表の日。

仕事に出かける前に父と母はふたりして、合格掲示板を見に行くと言っていたが、わたしは普段と変わりなく小学校で授業を受けていた。
そわそわしながら、半ば転がるように走って帰ると、母は
「おめでとう〜〜!」
と言って、玄関先で抱きとめてくれた。
「よかったあ〜〜〜」
春からは、あのエンジ色の制服に身を包むのかと思うと、はじめて嬉しい気持ちになった。
「よかったねえ。ナカモトユカちゃん」
母が笑いながら頭を撫でるので、わたしは驚いてしまう。
「え!なんで知ってんの?お父さん、内緒にしよって言ったのに」
「お父さん、おもしろいこと言うてたわ(笑)」

母の話だと、発表のすこし前、緊張していたのは母よりも父の方で、
「お父さん、緊張してるの?」
と母が尋ねると、父は、
「緊張やないけどな、あのな、名前を間違えられたんや」
と突然話しだしたのだと言う。そして、
「神主さんがな、拝んでくれはるとき、名前間違えたんや。せやから、もし落ちてたら、そのせいやからな」
と言ったそうだ。

わたしは吹き出して、
「試験落ちてたら、神主さんのせいってこと?(笑)」
と笑ったが、母は、
「ううん。ゆかちゃんのせいじゃないよ、ってこと」
ととても幸せそうに笑った。
よくわからないけれど、そのときのわたしは何故だか母を「美人だなあ」と眺めていた。
今なら、父の気持ちも母の気持ちもなんとなくわかる。
なんだ、父はなかなかいいやつじゃないか。

***

今では好んで、旅行先の神社などに訪れる。
ご祈祷」も「絵馬」もなんだってわかるようになったし、年始や、新しいことをはじめるときは、明治神宮で祈祷を受けたりするようにもなった。
大人になる、とはこういうことかもしれない。
それでも、いまだに緊張して息を飲む一瞬がある。

ナカマエ ユカの〜」

よかった、間違えられなかった……
名前を呼ばれるときは、いつだって緊張する。
そして、無事に読み上げられると、いつもホッと胸を撫で下ろして、あの日のことを思い出すのだ。
どうやらあれ以来、わたしは「神様のテスト」には立ち会っていないようだ。

(イラスト:入江めぐみ

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