【連載小説】吸血鬼と雪女②

 7時ちょうどに家を出れば、近所に住んでいる陸と鉢合わせる。待ち合わせているわけではないが、どちらかが寝坊でもしない限りは毎日一緒に通学する。朝の穏やかな日差しを浴びながら簡素なあいさつをして、住宅の立ち並ぶ通りを歩き始める。 
「ていうかハルトさあ。何で藤原に構うわけ?」
 陸と僕は同じ速度で進みながら、流行りのドラマについて語っている最中だった。それが何故かいきなり藤原さんの話題が振られ、僕は素っ頓狂な声を上げてしまった。
 「な、何で藤原さんの話になるんだよ」
 「だっていつも構いに行くじゃん」
 陸がじろりと僕を見る。
 「藤原は中学からあんなだったぞ」
 だから放っておいていいんだよ、と頭の後ろで手を組む姿を見てから、僕は頬を掻いた。そう言われても明確な理由は思いつかない。何故だろうと他人事のように考えて、それなりの回答を述べる。
 「女の子がああいうの読んでたら変に思われるだろ。可哀想じゃん」
 はあ、と溜息が聞こえた。
 「そう思われたとしてもハルトには関係ないだろ」
 それはそうだ。特に親しい間柄ということもないし、彼女が好奇の目で見られても僕には何の影響もない。となると身勝手な正義感を押し付けてしまっているだけなのかもしれない、と考えて僕は少しだけ不安になった。だんまりしてると、背後からからサンドバッグを殴ったような音がした。次いでじんじんとした痛みが腰の真ん中を襲う。思わず立ち止まり、背中に手を伸ばす。
 「何するんだよ」
 「まあ、お前のそういうところ嫌いじゃないけどな」
 口角を思いきり上げて笑む陸を眺めて、僕は唇を尖らせた。恥ずかしい事を言わされた気がする。
 陸は頭上に広がるソーダ色のように爽やかで、意地悪な微笑みのまま歩き出す。
 「あんなだから中学の時もずっと一人だったし。ハルトのお節介であいつもちょっとはマシになればいいな」
 僕はまた何も言えなくなった。そんな人助けみたいな殊勝なことができているだろうか。彼女を思い出そうとすると、あの寂しそうな顔が浮かんだ。
 

 校舎に入ると、陸が「ちょっと職員室に用あるから」と言い残し、教室と反対方向に歩いて行ってしまった。唐突な別れに呆然とする僕は、ホームルームまでの時間をどう潰そうかを思案した。
 結局妙案は思いつかず、のろのろと秘密基地へ向かうことにした。まだ人の揃っていない教室で待つのは面倒な緊張感があるので避けたかった。秘密基地といっても壁もなければドアもない、人が寄り付かないというだけの空間だ。もしかしたら僕の他にもそこを秘密基地にしている人がいるかもしれないが、今のところその誰かに遭遇したことはない。
 メイン校舎の後ろに位置する別棟の端に、避難階段がある。そのくたびれた一角が僕の秘密基地だ。重いドアを開けるとひゅうと風が吹いてきて、長くはない髪が靡いた。そして気付く。目の前に誰かがいる。思わず漏れそうになった悲鳴を拳を握って押し込めて目を凝らすと、黒いセーラー服の後ろ姿に真っ黒な長髪が揺れているのが見えた。何故だか見てはいけないものを見てしまった気分になり、そうっとドアを閉めようと思った刹那、小さな頭がこちらを向いた。
 「逢坂くん」
 涼しい声が僕の名を呼ぶ。振り返った彼女は先ほど話題に上がった藤原小雪さんだった。しゃがみこんだまま僕を見上げている。見上げてくる藤原さんに対して申し訳ない気持ちになり、僕も隣に腰を落とした。
 「こんなところに何か用?」
 藤原さんに質問を投げかけられ、僕はたじろぐ。暇つぶしとは言い難い雰囲気だ。わざわざ別棟まで足を運ぶ理由など怪しいこと以外思いつかない。応えあぐね「藤原さんはどうして?」と聞き返す。
 「お腹が空いてしまって」
 「え?」
 思わず聞き返した。授業中以外ならば教室での飲食は禁止されていないはずだ。藤原さんの回答はとても奇妙だった。僕は校舎から見える石垣と、その上に生える枝の細い木々を眺めてその真意を考える。藤原さんが僕の方を向いたのを視界の端で感じた。
 「食事は沢山摂っているのにいつもお腹が空いているの。逢坂君はそういうことある?」
 沈んだような声色で話すのはいつものことなのに、その声はとても深刻な色を含んでいた。
 「何だか体の調子もおかしくて」
 話を聞いた途端、藤原さんの白い顔が、白を通り越して透けているような気がした。「大丈夫?先生呼ぼうか?」思わずその背を撫でる。
 「逢坂くん、優しいね」
 藤原さんが微かに口角を上げる。薄い唇の間から真っ赤な舌が現れて、下唇を舐めた。
 その様子を呆けたように眺めていたら、目の前が陰った。両頬を包まれ、唇が濡れたものに触れる。
 状況に混乱していると、口の間をぬるぬると進行され、思わず目を瞑った。頭の片隅でいやらしい考えが浮かぶ。よくない想像をしつつ、しかし抵抗することはできなかった。滑らかに舌に絡まり解けていく感覚に鳥肌が立つ。段々と心地が良くなってきた頃、ようやくそれは離れた。
 「逢坂君、ごめんね」
 目の前で口を拭う藤原さんが眉を下げている。僕はそれを見て確信した。
 「何で、キス、したの?」
 「…美味しそうだったから」
 「え?」
 藤原さんが僕の唇に細い親指を当てる。
 「逢坂君、美味しかった。ありがとう」
 控えめに目を細めて、藤原さんは立ち上がった。スカートの汚れを払い、手を握ったり開いたりしながら「元気になったかも」と呟いている。僕はこんがらがった頭を整理したくて、座ったまま彼女を見上げた。
 「藤原さ」
 「大丈夫、内緒にするから」
 何度目か分からない「え?」が出た。多分、それは僕のセリフだ。そして藤原さんを見上げている視界の中に彼女の下着が映り込んでいることは僕だけの秘密にしておこうと思った。
 「ねえ、またさせてくれる?」
藤原さんが僕の顔を覗き込む。黒髪が軽やかに滑り落ち、大きな瞳がきらきらと光っていた。
 「い、いいけど」
 たじたじになりながら応える僕に、「ありがとう」と微笑んで、彼女は重いドアの向こうへ消えていった。残された僕はやっと大きく息を吸って、頬を撫でる清々しい風に心の混濁を吐き出した。

 重い足取りで教室に戻ると、陸が気付いて手を上げた。
 「どこ行ってたんだよ」
 「ちょっと所用がありまして」
 へえ、と興味なさそうに相槌を打った陸の肩を徐に殴る。一発、二発、三発。力は込めていないが
何度目かで「いってぇ」と文句を言われたので止めた。そして溜息をつく。
 「何なのお前」
 「何だろう」
 「え、哲学?」
 「わかんねー」
 吐き出しても吐き出しても溜息が出た。怖くて後ろの席が見れない。藤原さんは今どんな顔をしているのだろう。僕は声を上げて泣きたくなった。 

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