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優しさの正体

私はきっと優しくない。そもそも優しいって何なんでしょう。何が出来たら「優しい人」認定されるのか、私には検討もつかない。分からないから「優しい人」になろうとも思わないし、なりたいとも思わない。でも一丁前に、人のことは評価出来るのだ。「あの人は優しい」、「この人は優しくない」って。何を基準にそう感じるのだろう。

「はいはい、今から優しい言葉掛けるよ~心して聞いてね~」って先に言ってくれたら「そうか今のが優しい言葉なんだな!」という具合に分かりやすい気もするのだが、何かが違う気がする。

「私優しいから!すっごい優しいから!」って言われたらどうだろうか。「ああ、この人は優しい人なんだ」と思えるだろうか。思えない気がする。

何故だろう。人から優しさを押し付けられると素直に受け取れないのは。もしかしたら優しさとは公言するべきものではないのか?優しい人バッジなんて物があったら友達作りの取捨選択も楽そうなになあ。でも実際にそんな物を付けている人がいたら絶対に近寄らないなあ。だって胡散臭そうなんだもの。

「優しい」というのは、実は思っている以上にとても繊細なものなのかもしれない。大和撫子の如き奥ゆかしさが、「優しい」を「優しい」にしているのかもしれない。というか、私が思う優しさと、あなたの思う優しさが同一のものなのかどうかがまず怪しい。だから、「優しい」は送り手が決めるものではないのだと思う。受け手が「優しい」と感じて初めて、それが優しさになるのではなかろうか。

私は精神疾患を抱えているが、例えば「うつ病の人には優しくしなさい」という風には思わない。だってもう意味が分からない。「優しいって何だ?」と言っている人間が、「病人に優しく」って気軽に身勝手な優しさを振りまいていいのか?それは本当にその人にとっての優しさになるのか?そもそも健常人に対しての優しさの表し方も朧ろげなのに、病気を抱えている人に自分の知識の中だけの優しさを押し付けていいのだろうか。

まさに堂々巡りである。優しさとはなんて難しいのだろう。きっとあれだ。「優しさものさし」のようなものが似ている者同士でないと、優しさは上手く交わし合えないのだ。

私もよく思うもの。優しさのつもりで言ってくれた、またはしてくれたであろう行為に対して「お節介だなあ」なんて。きっとこれは相手の優しさものさしと私のものさしが噛みわ合わなかったのだ。逆に私がお節介と思われることも多かれ少なかれ恐らくあるだろう。何が言いたいのかというと、「優しい」は難しい、これに尽きる。

もう何だかゲシュタルト崩壊しそうだからやめよう。やさしいってなんだっけ。


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