生きにくい時代は、ことばが作っている #あなたは七夕に何を願う
私がとても嫌いなことばがある。
それは「老害」だ。
自分の祖父母が言われたらどんな気持ちになるの
実際に公共の場で迷惑をかけている高齢者を何度か見たこともあるし、良い気持ちにはならないことは確かだ。しかし、高齢者が全員そうかと言えば、全くそんなことはない。中年も青年も少年少女も、迷惑をかけるヤツはかける。高齢者=老害みたいな「風潮」として表現されるのは、実に理解に苦しむ。
この国では、いつからか「老害」という言葉が謎の市民権を得てしまった。言ったもの勝ちの時代である。特にSNSには、ただ「自分の意に沿わない高齢者」というだけで、すぐに「老害」と宣う輩が増えた。彼らは、自分の祖父母が言われたらどんな気持ちになるか、想像しないのだろうか。
悲しかったことがある。「とくダネ!」という、フジテレビの朝の情報番組で長年司会を務めてきた小倉智昭さんの勇退の挨拶で「もう自分は老害だから・・・」のようなことを言われていたのを、ニュース記事で知った。私は特段小倉さんのファンというわけではない。それでも、私はとてつもないショックを受けた。もはや、高齢者の方が自嘲的に「老害」と使う時代になってしまったのか、と。
小倉さんは本心ではなにくそ、という思いがあったと想像する。それでも、そういう外野の声があったことを、気にされていたのだろう。ずっと心を痛めていたのだろう。なぜ、ただ同じことを長いことやっているだけで「老害消えるべし」となってしまうのか。悔しい。
「最年少」「最短」が持て囃される時代だ。将棋に詳しくない人でも「藤井聡太」という名前は聞いたことがあるだろう。若さは武器だ。それは分かる。だからといって、高齢者を笑ったり軽んじたりする風潮が反比例的に助長するのは許せない。関係ないじゃん。若さで輝く人もいれば、老いで輝く人だっているのに。
祖母はいつだって本気だった
私はネット上で実年齢を明かしたことはないが、noter仲間の方々の多くが私より年上だと思う。タメ口で馴れ馴れしく、何かにつけ偉そうに語ってしまう私にも、皆さん本当に優しく、広い心で受け止めて、笑って許して下さる。また、各々の人生経験からのことばが滲み出た記事も勉強になっているし、参考になることも多い。私はおべんちゃらを抜かす時間が人生で一番ムダな時間だと考えているので、これは全て素直に、本心で書いている。
白状すると、かつての私は、年齢を重ねることにあまりいいイメージを抱いていなかった。それが、noteに来て確実に変わった。数々の先輩たちのおかげだ。日々を楽しんでいる姿。懸命に生きている姿。チャレンジしている姿。お手本のように見せてくれる。ご本人は苦しい時もおありになるだろうが、私には、皆さんがそれぞれのステージで、輝いているように見える。
もちろん、高齢者と呼ぶにはまだまだ早い方々ばかりだが、仮にnoteの諸先輩方が、20年後や30年後に、自らを「老害」と呼び、肩身が狭くなり、人の目を気にして、表舞台から隠れるように生きようとする姿なんて、想像できないししたくもない。きっと、私は説教すると思う。「そんなこと自分で言うたらアカン(ノシ*`ω´*)ノシ」みたいな感じで笑
一昨年大往生した私の祖母が、孫の計算ドリルや漢字ドリルを一緒にやって、間違えて本気で悔しがっている姿を、昨日のことのように覚えている。夏休みに体育館を借りて卓球大会をやった時の、孫を本気で倒しにきたあの表情も鮮明に思い出せる。彼女はビッカビカに輝いていた。
生きにくい時代は、ことばが作っている
今、老害老害と軽々しく言っている、全ての同年代以下の人たちに伝えたい。キミたちだっていつかは高齢者になるんだよ。40年後、50年後の自分に唾をかけるようなことをしているんだよ。キミたちは、人生の後半、肩身の狭い思いをしながら生きていきたいのか。吐いたことばは、いつか自分に返ってくるんだよ。
私は小さい頃から、ことばの表現に拘ってきた。だからこそ、分かることや、見えてくることがあると思っている。その中の一つ。生きにくい時代は、ことばが作っている。「老害」なんて最たる例だ。何となく言いやすい、キャッチー。「マジで老害なんだけどwww」 PCやスマフォの画面の奥には、血の通った人間がいることを想像できずに、軽々しく呟く。
やめようよ。「老害」なんて、誰も得しないことばだよ。
七夕には似つかわしくないのは承知で、私の願いごと。
「老害」ということばを、誰も使いませんように。
wisteriaさんの企画に参加しました。
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