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マーサ・スタウト著、木村博江『良心をもたない人たち』感想

 原著タイトルはThe sociopath next doorという。直訳すると『隣のソシオパス(サイコパス)』となる。これが『良心をもたない人』という邦題になった。つまり本書は、ソシオパス(サイコパス)についての本なのだ。本書ではsociopathを「サイコパス」と訳しているので、自分もそれに従って感想も書いていこう。
 どうしてこの本を読もうと思ったかというと、まさに「良心をもたない人たち」に自分は苦しめられていたのではないかと疑ったから。今後どうやっていくか、この種の人たちをどう見分けるか、付き合わねばならないとしたらどのようにすればよいのかを知りたくて読んだ。

「良心をもたない人」=サイコパスはこんな人

 表に現れるサイコパスの特徴としては、次の内容が挙げられる。

だれともきずなを結ぼうとせず、つねに無責任で、良心の呵責を感じない。(p69)
彼らのテクニックその一は、相手を魅了することだ。(p123)
良心なしに人生を組み立てるには、欺瞞や幻想が必要になる。そこで知的サイコパスは演技が巧みになり、プロの役者なみのテクニックまで駆使する。(p128)
追い詰められたサイコパスは、逆恨みをして怒りだし、相手を脅して遠ざけようとする。(p128)

本書より

 わたしの頭に数人の顔が浮かんだ。良心の呵責を感じない。いわくいい難いカリスマ性を持っている。感情を演技で表すことができる。追い詰められると脅してくる。
 おそろしいことにすべて当てはまる。やはりあの人たちはサイコパスだったのだ。
 本書によると、サイコパスは25人にひとり、つまり4%の割合で存在するという。さほど特異な存在というわけではないのだ。ひとりにつかまって骨までしゃぶられそうになり、なんとか逃げ出しても、その後の人生でまた別のサイコパスに出会うことになる。一体どうしたらよいのか。
 まずは、サイコパスを見分けて遠ざからなければならないと本書では述べている。次の項で列挙してみよう。

サイコパスの見分け方

最良の目安になるのは、おそらく"泣き落とし"だ(p143)
ひどく不適切な行動をする相手が、繰り返しあなたの同情を買おうとしたら、警戒を要する(p145)

本書より

 自分がサイコパスと疑う数人の言動を振り返ってみて、「うーん、同情を買おうとされたことなんてあったかな?」と思ったが、たしかに当てはまる。それも何回もだ。当時はわからなかったが、冷静になっていくつかの場面を思い出すと間違いない。
 しかし、なぜサイコパスはこんなことをするのか。すぐばれる嘘をつく。ばれるのを防ぐため相手を徹底的に弱い立場におこうとし、情報を与えない。話し合いはまったくむだで、相手の話を聞いているふりをして、結局は何も聞かなかったのと同じ行動しかしない。
 そのあたりも、本書に載っていた。

サイコパスはこんな人

 近づいてはならない「サイコパス」について、本書はこんな人だと紹介している。

愛ややさしさといった感情的体験を受け止めることができない(p168)
唯一の感情は、直接的な肉体苦痛や快感、あるいは短期間の欲求不満や勝利感から生まれる”原始的”な情緒反応である(p169)
三回嘘が重なったら嘘つきの証拠であり、嘘は良心を欠いた行動のかなめだ(p211)

本書より

 プラスの感情がなく、嘘をつく人はサイコパスである可能性が極めて高いということだ。
 そういう人が身近にいるとわかったらどうすべきか。本書では、サイコパスには近づかない、縁を切る。それがどうしても無理ならば遠ざかれとある。だが、そう簡単に行くならばそもそもサイコパスに苦しめられることはない。一体どうしたらよいのか。
 本書ではサイコパスに対する態度や言動をいくつか挙げているので、自分にとくに必要だと思ったことのみ引用しよう。

世の中には文字通り良心のない人たちもいるという、苦い薬を飲み込むこと(p210)
調子のいい言葉を疑うこと。お世辞は非常に危険である(p212)
とにかく相手を避けること。完全にしめだすのが不可能な場合は、できるだけ顔を合わせないように、計画を立てること(p215)
かんじんなときには、笑顔を見せず冷たく接することを恐れてはならない(p216)
同情からであれ、その他どんな理由からであれ、サイコパスが素顔を隠す手伝いは絶対にしないこと(p216)
自分の心を守ること(p217)
しあわせに生きること(p217)

本書より

 つまり、「サイコパスを見分けろ。そうとわかったらすぐに離れろ。何かを共有しても無駄になるから試みるな。そういう人たちと関わらないのが一番のしあわせになることを自分に刻みつけろ」。本書の要点はこういうことになると思う。
 こうやって考えると、これまで自分が関わったなかで「あの人もサイコパスだった」という人がさらに何人も出てくる。当たり前である。25人にひとりがサイコパスなのだから。
 そう、仮に「いま」わたしがゆるいつながりをもっている人が200人いるとすると、そのうち8人はサイコパスである。このことは肝に命じておかねばならない。

サイコパスvsサイコパス

 さて、ここまでは自分に関わった(複数の)サイコパスの人のことを考えて書いてきたが、最後に「(自分は直接の被害を受けていない)外から見たサイコパス」について触れておこう。
 少し前だが、オンラインの世界でサイコパス同士が不毛な論争を繰り広げていた。どちらも一歩も引く姿勢を見せず、自分の正しさを証明しようとするだけで話し合いになっていなかった。
 その理由もこの本でわかった。二人ともサイコパスだったのだ。
 サイコパス同士がやりあうと不毛な争いになり、どちらかが、あるいは双方とも切れて意見を言わなくなり、自分の正しさを主張するだけで終わりになる。元から歩み寄ろうなどとまったく思っていない。自説を述べて同情を買う、自分に共感させるのが目的なのだ。
 ここで大事なのは、そうした本人たちは傷ついたように見える。だが実はまったく平気の平左なのに、周りは疲弊するということ。
 それを見ている場合、論争には入らず、一切意見を言わず、どちらにもひとことも加担しない。それが正しい接し方だと本書でわかった。一見、同情を買う発言を垂れ流す人もサイコパス。絶対に近づいてはならない。

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