放送大学「より良い思考の技法――クリティカル・シンキングへの招待』」受講ノート~第5回

哲学的懐疑

 クリティカル・シンキングの考え方はギリシャ哲学に遡るということで、この回は哲学である。講師は伊勢田哲治先生。
 まずは、哲学的懐疑とは何か。ソクラテス『メノン』では「徳」とは何かについて問答が繰り返される。結局「魂は不死なので、いろいろな知識を生まれる前から知っており、われわれはそれを思い出すだけ」という「想起説」をソクラテスは唱えている。
 有名な「無知の知」(なんとなく知っているつもりのものについて問い返すことで、実は自分が知らなかったということを明らかにする)、「汝自らを知れ」(無知を自覚することで自分自身についても理解を深めることになる)についても言及があり、大学時代に一般教養でとった「哲学」の復習になった。
 次はアリストテレス。有名なのは「三段論法」とさまざまな「誤謬」。とくに「原因でないものを原因とする誤謬」などが有名である。
 たとえば「僕が球場で応援すると、いつも応援しているチームが負ける」「ということは僕が球場で応援したから負けたにちがいない」と考える誤謬(本来関係ないはずのことを勝手に結びつけてしまう)がそれである。
 ソクラテス・プラトン・アリストテレスの哲学は、「なんとなく信じていることを疑う」ところから始めて、より積極的な思考を行なうようになった。そのなかで、論理的な思考とか論理的でない思考の分類など、よりよく考えるための技法を開発したということになるだろう。

古代の懐疑主義

プラトンやアリストテレスより後の時代の哲学として代表的なものに「ピュロン学派」がある。「判断を保留するべきだ」という考えに基づき、懐疑を徹底する主義をもつ人々だ。
  ピュロン主義には十の方式がある。8番目の「相対性に基づく方式」を挙げると、「大きい」とか「小さい」を我々は絶対的な性質であると思いがちだが、そうではない。比較対照次第ということ。
 もうひとつ挙げよう。10番目「生き方と習慣と法律などに基づく方式」というのは、いろいろな文化間で物事の捉え方が異なる。かつてインドネシアで、日本のうまみ調味料がイスラム法違反だと判定され、逮捕者が出たことがある。製造プロセスで豚由来の酵素を使ったためである。これは日本がイスラム教の禁忌について甘く考えすぎていたのが原因である。
 この時代でもうひとつ有名なのが「アグリッパのトリレンマ」だ。何かの主張について「どうして?」と根拠を尋ねることを再現なく続けていったらどうなるのか?という命題である。行き着く先には3つの可能性が考えられる。
  1 無限背進:根拠の列が無限に続く
  2 仮定:無根拠に正しいと仮定された主張にたどりつく
  3 循環論法:いくつかの命題がお互いの根拠になっている
 循環論法についてはよく論理学でも扱われている。たとえば「この本の中に『この本に書いてあることは全て正しい』と書いてある」と記されていると堂々巡りになってしまうというものである。

近代の懐疑主義

近代の哲学者といえばデカルトとヒューム。この2人は、哲学の疑いを突き詰めてきた人といえる。
 デカルトは、あくまで知識を建設するための手段として懐疑論的議論を利用するという考えであり、これは「方法的懐疑」と呼ばれる。「少しでも疑う価値のあるものは判断を保留する」と考えである。
 『省察』での思考実験「デーモン」が、デカルトがこの考え方を実践したものだ。「自分が見ている世界のすべて、自分の身体だと思っているもののすべてが、デーモンが自分を騙すために見せている夢かもしれない」という仮説である。これは現代でもSF等に登場することがあるので知っていた。
 有名な「我思う故に我あり」は、身の回りに見たままの世界が存在するという、あらゆることの基礎になるような事柄についても、われわれは確信を持って述べることはできないということである。うーん、この当たりから難しくなってくる。
  ヒュームは「因果の懐疑」、「帰納の懐疑」が有名である。
 「因果の懐疑」というのは、「Aが起きたあと、たまたまBが起きただけだったらAをBの原因とは言わない。AがBの原因であるためには、何らかの『必然性』が必要。だが、ビリヤードボールが他のビリヤードボールを動かすといった非常に単純な因果関係ですら、『必然性』は見えない。そうなると、必然性なんて本当は存在しない。ただの『思考の習慣』ではないかというもの。これももう難しくて理解が追いつかない。
 「帰納の懐疑」は、「これまでこのパターンが繰り返してきたから次も同じパターンが生じるはず」であるという「帰納的推論」を疑うものである。 

哲学的懐疑の文脈とは

わたしは哲学が得意ではないので、考えれば考えるほど、哲学そのものがよくわからなくなってしまう。だが、「文脈主義」という考えを使えばよいと伊勢田先生は言う。
 「文脈主義」とは、「何をどこまで疑うかは、その問いの文脈に応じて決まる」というもの。
 日常会話の文脈は、そもそも情報の信頼性が求められない(だから自分の常識に従って「疑」えばよい?)。科学的探究の文脈では、信頼性は求められるが哲学的懐疑に答えることは求められない(だから信頼性が十分かどうかということを「疑」えばよい?)。そして哲学的懐疑の文脈とは、制限をつけずに議論することで知識の本質を明らかにするのだという。
 日常会話の文脈と科学的探究の文脈は、日常の思考で行っていることなので問題ない。哲学的懐疑の文脈は「知識の本質」を明らかにするために行なうことなのだとわかった。
 つまりこの回を一言でまとめると、「哲学というのは知識の本質を明らかにするために、際限なくどこまでも考える学問」であるということになるだろうか。

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