翻訳校閲者になってよかった

東芝Rupo、富士通OASYSで編集ライター修業

 noteを今年から書き始めたが、自己紹介もしていなかった。簡単にプロフィール(略歴)をお伝えしておこう。
 大学を出てからメーカー2社で社内編集ライターとして修業を積む。原稿用紙に書いて持っていっては丸めてゴミ箱に捨てられ……という漫画のような光景が毎日だった。
 最初に使った「ワープロ」は3行表示の東芝Rupo、次は親指シフトのOASYSだった。
 退職後、翻訳業界に入るため、1年半ほど英語を勉強した。独学で毎日単語とイディオムを覚え、『英文精講問題』シリーズで文法と英文解釈を復習。リスニングはNHKのラジオ講座を活用。遠山顕先生「英会話入門」、大杉正明先生の「英会話」、杉田敏先生の「やさしいビジネス英語」を毎日数十回シャドーイングした。

翻訳会社数社で翻訳チェッカーに

 独学ではあったがなんとか英語が読めるようになってきた。英検準1級、TOEIC910点まで取ったところで翻訳業界に入った。最初は派遣翻訳者、次にエージェントで翻訳チェッカーを務めたあと、さらに2社変わった。やはりチェッカー(翻訳校閲者)であった。
 会社員時代最後となったエージェントには長く在籍した。途中、会社が移転して通勤時間が片道1時間40分になったが、病気をしなければいまでも勤めていたかもしれない。
 ちょうど10年前、2003年に病気をして手術を受けた。このあと復帰に失敗して、辞めることになった。

ふたたび編集の世界へ

 3か月ほど休養した後、ふと応募した求人に通り、契約社員として編集プロダクションに入ることとなった。
 メイン業務は英文広報誌の編集だった。20年ぶりに編集の世界に来て「デジタル時代の編集」を覚えた。
 1年半後に離れることとなったが、ここでの人脈からはいまでも仕事をもらえているのはほんとうにありがたい。

出版社でオンサイト勤務~ほんとうの意味でのフリーランスへ

 その後、ある出版社で「オンサイト」勤務をしていた。身分と待遇はフリーランスだが「常駐」している形だ。ここでは英語教材・学習参考書の仕事を覚えた。
 出版社が社屋を移転することになり、通勤が片道1時間40分かかるようになった。これは無理だと判断し、当時手掛けていた本の校了と同時に離れることとした。昨年10月のことである。
 その後は伝手をたどったりトライアル(テスト)を受けたりした。いまは校閲・翻訳校閲・英語教材の仕事を数社からもらっている。

翻訳者としては使えない自分

 さらに一昨年からは翻訳校閲の講師業をすることになった。翻訳校閲者としては名前が売れており、フリーランスとしては仕事も安定している方だと思うが、それはあくまで「翻訳校閲者」だからである。おそらく、翻訳者としてはわたしはやっていけないだろう。
 まず出版翻訳はお金にならないので、「生計を立てる手段として働く」わたしは、最初からその道は考えていなかった。
 産業翻訳界は翻訳支援ツールが使えなければどうしようもない。だが、翻訳会社時代に旧バージョンのTradosを使っていたというのが、わたしの支援ツール全経験なのだ。自分でツールも買っていない。
 Tradosの仕事のときは「バイリンガルファイル(Tradosがなくても作業できる形式に変換されたファイル)」を送ってもらうことになる。他のツールには一切対応できない。memoQ、Phrase TMS、XLS、どれも自分には扱える気すらしない。
 つまり、現在の翻訳業界には、わたしのスキルで新しいクライアント、エージェントを開拓する隙はない。
 いま翻訳をするときは、英語教材に和訳をつけるという「教材執筆の一環」であり、翻訳の仕事として独立しているわけではない。

翻訳校閲と英語教材で生計を立てる現在

 一方で、オンサイト先を離れることになってから開拓してきた得意先数社からは、翻訳チェック、翻訳校閲、そして英語教材の執筆と校閲についてはほどよい具合で声をかけていただいている。つまり仕事があふれることがあまりない程度で安定している。多くはないが、なんとか生活が成り立つくらいの収入は得ている。
 というわけで、仕事人生において「いまが一番幸せ」である。これは、翻訳者としての自分を捨てた、ある時点で諦めたからこそ得られたポジションなのだと、最近気づいた。

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