見出し画像

②客観的明証と主観的感覚の相克

皆さんこんにちは、久しぶりにやって参りました、インテリ・レオン

目下、誰からの需要もないことでおなじみの(笑)インテリ・レオンシリーズですが、僕が京大の大学院時代に取り組んでいた【現象学】に関するレジュメから抜粋してお送り致します。

この当時の僕は、とにかく「客観的明証」に対して、「主観的感覚」の方が大切だ!ということ探索していました。

「科学的に証明されました」、「客観的事実に基づいて…」、「統計学的に有意な…」といった文言に対して、いやそれって本当?そういわれても実感ないんだけど…腑に落ちないんだけど…。。。みたいな感覚で、「一見確からしい正しさ」に対する反抗心がとにかく強かったのです。

このページをご覧になっている皆さんはそんなことはないと思いますが、この世にある「正しそうな」ことは、基本的には眉唾物で、疑いもなく受け入れることはとても愚かですよね。

よく聞くのが、「いやでも、テレビでやってたから、これってきっといいよ!」って…いう話。いやいや、テレビって全部が企業の利潤追求のための広告事業じゃん…。踊らされ過ぎやろ…。という。苦笑

そうした蒙昧とした状況に陥らないためには、自分の頭で考える自分で試してみて、自分の感覚を基準にして物事を把握するということが重要ですよね。


こうしたことは、研究の分野にも言えます。
長くなるので割愛しますが、「科学哲学」という分野があり、科学には「自然科学」と「人間科学」というものがあります。


数値で客観的に証明しようとするのが「自然科学」
その人の主観や感覚から事象の本質をみようとするのが「人間科学」

というくらいの理解で大丈夫です。

僕は大学時代、バレーボールをしていた時に、監督やコーチの「的外れな客観的アドバイス」がとにかく嫌いでした。もちろん善意で言ってくれるものもありましたが、一方向的な「指導」に馴染めなかったというのもあります。

自分の感覚を邪魔されたくないというのが一番の本音でした。

スポーツの世界では、そうした「善意の誤指導」により、今日も多くの才能と可能性の芽が摘まれていっていると思います。


さて、そうした問題意識から大学院生当時の僕は、研究の世界でも現実の世界でも、「客観と主観」に対する関心が高まり、主観の探究を論拠とする分野を研究していきました。

それが、以下の記事で少し触れているものです。



今回はその続きとなります。

まずは、25歳当時の僕が書いていた内容を抜粋します。とがってる…。笑

  コーチが正しいのか、ビデオ分析が正しいのか、理屈が正しいのか、このどうしようもなく厳然と存在している自分の運動感覚、動感に忠実にあるべきではないのか?事象の本質を言及しているのが「(自然)科学」「バイオメカニクスによる客観的運動観察による正しい理想のフォーム」であったとするならば事象そのものとはまさしく動作を実行しては返ってくるこの自らの運動感覚に他ならないのではないか。
  客観的なものは、或る論理的あるいは物理的な正解を表しているかもしれず、それゆえ真理であると言えるかもしれない(少なくともそれを統計という手法によって目指しているのかもしれない)反面、それは誰にとっての真理であったのか。
  この身に生起してくるこの運動感覚は、客観的な正解を「さぁ模倣しろ」と言われて行ったことの結果として生じてきた違和感をこそ掘り下げるべきであり、それを実感に伴った理想的な動きへと、他者からのフィードバックではなく自身のメタ認知的な(それはすなわち還元を志向していたと言えるのかもしれないが)探索行為の果てしない繰り返しのなかでこそ立ち現われてくる一つの「遍事象的真理」であり、そうした内観にこそその本質があるのではないかということを直感的に感得したからこそ、私はそうした内面性を重要視しているのであり、そうした意味において、現象学がまさに唱えんとしている所の現象そのものというところへの不可能性を前提とした還元が志向する領野が、実感と同感をもって私のなかで腑に落ちているのかもしれない。


さて、散文にお付き合い頂きありがとうございます。
以下に、「遍事象的真理」についてまとめておきます。
僕が探していたのはコレだ!みたいな感覚が、現象学という理論との出会いであったり、この遍事象的真理という概念との出会いだったりしました。


【遍事象的真理】

 大倉(2011)における、了解の保留と再体制化によって見出した言説が持つ納得性、明証性、真理性とはいかなるものなのか。またそれを「遍事象的真理」と呼んでいる大倉の考えとはいかなるものなのか。そこで以下に、「物語論」との対比のなかで、「超越的真理」と「遍事象的真理」について論じている部分を引いてみることとする。(大倉,2011・p327-328)

 (ある人が生の事実性を組織化して作り上げた「既製品」としての「物語」(現実性)に対して、各「物語」を比較検討する中で「真理」に迫ろうとすることの是非に関して。ここでの「真理」とは、ある「物語群」を貫く「事実性の組織の仕方」のことを指す。簡単に言うと、物語論は「真理」を目指していないというが、それでは研究者の生み出す学知は何でもいいことになってしまう。では、どのような「真理」を目指すべきか?ということに関して。)
 【その「真理」は全ての事象、全ての「物語」をそれによって説明してしまえるような絶対的原理としての「超越的真理」ではなく、出会われた「物語」全てに「一応」妥当するような「遍事象的真理」、新たな「物語」が現れたときには再び検討されねばならないような「遍事象的真理」である *。

* 「語り合い」のアイデンティティ心理学 (大倉,2011・p328・注釈*95)
例えば、多数の被験者に対して統計的手法を用いて知見を導き出すような数量的研究の場合、有限な数の被験者を通して「誰にでも当てはまる」一般法則が導かれる。ここには有限なものから無限なものへの跳躍があり、そういう意味で数量研究は「完全な知」を目指していると言えるかもしれない。一方、協力者一人一人の「生きる物語」を地道に探求していく語り合い法では、常に完全には了解できない領域が残り、そこでの知は「不完全な知」に留まる。それは必ずしも悪いことではなく、そこにこそ一人の人間をよりよく了解する余地が、また次に出会う人の生に丁寧に向き合う姿勢が生まれるのではないか。そして、そうした視点のもとでは、各「物語」は決して「多様だが等価なもの」や「一般法則のもとに没個性化されたもの」ではなくなって、ときに了解をぐっと深めさせるような極めて意味深いものからそうでないものまで、ある程度の優劣がつけられるものになるのではなかろうか(そうでないと研究者の生み出す学知という「物語」は何であってもいいことになってしまう)。大変混乱した「真理」概念の用い方であるが、ここでは概ねそういったことを述べようとしてい


 (ある人が生の事実性を組織化して作り上げた「既製品」としての「物語」(現実性)に対して、各「物語」を比較検討する中で「真理」に迫ろうとすることの是非に関して。ここでの「真理」とは、ある「物語群」を貫く「事実性の組織の仕方」のことを指す。簡単に言うと、物語論は「真理」を目指していないというが、それでは研究者の生み出す学知は何でもいいことになってしまう。では、どのような「真理」を目指すべきか?ということに関して。)
 【その「真理」は全ての事象、全ての「物語」をそれによって説明してしまえるような絶対的原理としての「超越的真理」ではなく、出会われた「物語」全てに「一応」妥当するような「遍事象的真理」、新たな「物語」が現れたときには再び検討されねばならないような「遍事象的真理」である 。また、事象の説明原理であるというよりはむしろ、その事象そのもののより深い意味の発見である。】
 【私の議論も協力者の語りも、確かに「物語」ではある。しかし、そのどちらともに「遍事象的真理」により近い、「真理性」の高い「物語」となることが稀にあるのだと、私はそう考えたい。恐らく先に挙げた社会構築主義的な言説、全ての「物語」は「あくまで一つの意味の秩序の創造、一つの現実の創造であって、それがより確かな現実であるという保証はない」という言説も、これまでの幾多の「物語」に出会い、それが更新され続けるのを見てきた結果生み出された一つの「遍事象的真理」として、それ固有の価値を持つものなのである(もっとも、やはりそれは注意深く検討されねばならない)。】


お疲れ様でした。
長くなりましたので、今日はここまでにしておきます。
次回の記事で、まとめにかえて、ということでメルロポンティ(Merleau-Ponty)による現象学の定義や世界内存在における自己のあり方に関する部分を抜粋して終わりにしようと思います。


kindleにて本出版しています。
こちらはこんな堅苦しいものではなく、とても簡単に書いていますので、ぜひご覧ください♪
ではまた。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?