恥の感覚を受け入れる

忘れられない失敗

20年以上前にした失敗を今でも覚えていたりする。
小学校のn十周年記念の全校撮影でただ一人、ジョジョ立ちのような顔が見えない変なポーズをして色んな人にがっかりした顔をされた。高橋涼介の真似をして「嫌いなものは『バカの巨乳』(*1)なんだよね」と同級生に言ったりしたこともある。当時はなんとも思わなかったのに今でも思い返すと恥ずかしい、嬉しくない思い出。おそらく他人の99%にとってはそんなエピソードを覚えていないか、言われれば思い出す程度の他愛のない話だ。そうした記憶を持っている人は少なくないだろう。でも、自分にとっては小さな「黒歴史」の積み重ねが笑い話にとどまらず、恥と罪の感覚を強めて苦しめ続けていた時期がある。

焦げ付いた恥と罪

昔から失敗が怖かったわけではない。人前に出るのも平気だったし、学芸会で主役を務めたりもした。自分の主張をするのは好きだったし、人の気持ちに鈍感な子供だった。ところが、人間は成長と共に感情が成熟してくると、多くのことを感じやすくなる。そうするうちに過去の自分の言動を恥ずかしいと思ったり、相手の気持ちを考えて反省するようになった。

本来はそれだけで終わる、誰もが通過する心の成長痛みたいなものだろう。ところが、児童期から青年期にかけて学校、家族、趣味、あらゆる場面で多くの不自由とストレスを感じて、どんどん神経質になっていった。恥ずかしい思い出や失敗の記憶が、脳裏にこびりついて離れなくなった。些細な失敗でも大きく感じた。人を傷付けないように細心の注意を払って、大人の顔色を窺った。いくら優しい大人が「失敗はしてもいいだよ」と諭してくれても、それは教育空間における話だと一蹴した。感情的な損失が焦げ付くように残留して、積み重なっていく感覚は耐えがたい苦痛だった。他人が絡む失敗や叱責は特に強い感情となり、恥を超えた罪や枷にも似た記憶に変質していった。例えるならば、記憶の中の亡霊に取り憑かれるようなもので、逃げ道はなかった。

そうなってしまっては、何をするにも恥の上塗りの可能性が付きまとい、身動きが取れなくなってゆく。何もしなければ苦しい思いはしない。思い出すと苦しく、辛い思いをするエピソードは少ない方がいい。非常に強固なロジックの完成だ。それは自縄自縛の大きな要因として長年心に巣食い、自分のライフステージが進むことを大きく遅延していた。

それなりに平和な現在

時は戻り2023年。今でもこうした気持ちがなくなったわけではない。今でも原稿に直しが何回も入ると自分が不甲斐なくて嫌になる(*2)。不用意に他人に失礼なことを言ってしまって後悔する日もある。そんな時には必要以上に落ちこんだり神経質になることもある。一人で嫌なことを思い出しては『0083』終盤のウラキ中尉みたいな顔になったりもする。でも、今は「日々の失敗は恥の上塗りで人生の罪」とまで感じることはもうない。

結論から言えば、そもそも生きていくうえで失敗が避けられない以上、「人生は恥の上塗りを続けるようなもの」と開き直るようにした。感情の焦げ付いた記憶についても同じで、自分はそういう感じ方をする人間だ、無理に抑圧したり感じ方を変えようとするのは間違いだ、という考えに行き着いた。恥を恐れて行動を起こさないのは合理的だが、行き着く場所は自分の心の奥底にある暗い部分か、それを覆い隠すような娯楽ぐらいしかない。

内的

どちらも、メンタルウェルネスの用語で言う「リフレーミング」に相当するのではないかと思う。とはいえ、最初から思考回路を変えてパッと行動に移せたわけではない。自分の場合はまず、嫌な記憶が浮上してきた時に対処する技術を覚えるようにした。必要だったのは、思い出す瞬間に蘇る当時の苦しさ、恥を否定せずに「恥ずかしかったね」と一度受け止めること。その後に「でも大丈夫だよ」「過去のことだよ」「こうしたらよかったね」と、ケースバイケースで受け流せるようになった。それを何度も続けていくうちに、100%あった苦しさが95%、90%、と少しずつ和らいでいき、当時の恥を過去に留められるようになったのを感じるようになった。

自縄自縛のロジックにメスを入れるには、より優れたロジックで思考の枠組みを変えようとするのは難しい。ロジックが自分を苦しめているなら、同じロジックで対抗するのは得策ではないのだ。それで自身の苦しさを和らげられるなら儲けものだが、感情のことは感情でケアをした方が予後はいいように個人的には思う。

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そうした地道な積み重ねの連続や、自分の認知や健康と向き合う日々を続けるなかで、ようやく恥の感覚について一定の回答を得たように思う。苦痛を和らげられるようになるまでは年単位の時間がかかったし、「これだけで私の人生がガラっと変わりました!」なんて魔法のような解決方法はなかった。ただただ問題を一つずつ潰していく地味な日々を過ごしたり(時には心折れて過ごさなかったり)して自分と向き合い、ふと振り返ってみたら楽になっているのに気付いた(*3)。


(*1)『頭文字D』の高橋涼介が公式設定で嫌いなものは「バカの巨乳」ではなく「バカな巨乳女」なので、引用からして間違っている。本当に嫌いだったわけではなくて、子供だったので「バカの巨乳」って言いたかっただけ。インパクトがあるから黒歴史エピソードとして挙げたけど、今はまったく気にしていない。それにしても、涼介はバカな"貧乳"女なら問題ないのだろうか。クールなキャラにギャップを持たせるためのおもしろ設定なんだろうけど、細かく考えだすと涼介がわりと嫌な人間に見えてくる。

(*2) そんな何回も直さなきゃいけないような原稿を出してくるヤツに仕事を振り続けてくれるので、不甲斐ないと感じる反面とても嬉しくも思っている。たぶん私に期待してくれてるんだよね…(※個人の感想です)

(*3) 日記と称して書いているので、読み返すとあくまで自分の内面に限って振り返っているのに気付く。その間にあった大変な思い、環境の変化、助けてくれた人々の影も形も無くなってしまうので、随分あっさりした感じがしてしまう。しかし、それもいちいち全部説明していると読んでる人は疲れてしまうし、下手したら某伝奇小説家の文庫本を手に持たせているような感覚に陥らせてしまうので仕方ないのかも(そもそも日記と称してるのに長すぎるという説も……スゥ……(成仏する音))。


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