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『完全無――超越タナトフォビア』第九十一章



脳内のニューラルネットワークが何次元であろうと、クオリアが何次元であろうと、宇宙が何次元であろうと、はたまたニセモノの無であろうと、お構いなしだ。

ダミーワールドのダミープログラムの疾走に過ぎない。

そのプログラムを規定するルールとは、人間たちだけに都合のよいような座標の位相をいくつも用意することで、人間の五感となるべく不整合を引き起こさないようにうまいこと調節された、いわば幅無き世界に対する分割愛とも言うべき、やむにやまれぬ論理学的かつ神経症的な(それを愛の側面と呼んでもよいが)野望に過ぎない。

ただ。

そこらの路上に佇むいびつな石を感じてみよう。

無様なほどに美しいではないか。

石ころから何かを学ぶことこそが第一義的なのだ。

完全無と完全有、それらは対義語関係にも否定語関係にもないのだ。

それは数えることのできぬ帰結だ。

なぜ何もないのではなく、何かがあるのか、という問いへの。

なにもないから、なにかがある。

それは不十分。

「から」はいらない。

原因と結果はどちらも先には立たぬ。

有限の「限」、無限の「限」というありありとしたものを超えるためには、完全無即完全有などという偽りではない、純粋な完全無をまず【理(り)】への梯子として要請しなければならぬ。

有限も無限(もちろん、無限大・無限小などの動きのある方の無限のことなのだが)も存在しない、ということを決定付けるためには、完全無という無的な梯子を登り切り、「原約」の刻印眩しき扉の無的な開放、それをぜひとも遂行せねばならないだろう。

全一的な決定論に世界が従うことも要請されることもない。

すべては、――あらかじめすでに――である。

決定論的カオスには意味がない。

世界に初期値はない。

世界は非線形でも線形でもない。

幅のある概念から導き出されるような数値ではない。

無が幅のある無限として立ち現われてくることをイメージしても意味がない。

無が有限に立ち現われてくることをイメージしても詮無い。

だからこそ、すべてがあってしまっている。

しかし。

すべてとは取りも直さず、カウンタブルな何ものかの集合体ではなく、宇宙を輪っかで包囲した全一的なエリアでもない。

世界に総体なし。

幅無き無が積み重なるかのような「世界の世界性」に対して、幅のある現象という幻像を五感が捉えてしまうのは、人間たちのなんともユニークかつグレートフルな属性ではある。

しかし、その頽落と短絡こそが、前-最終形真理的世界の捏造である。

その範疇で世界を語ってもタナトフォビアを克服することはできない。

そして。

世界は完全無そのものであるがゆえに、何もかもがある、ということでもない。

「何もかも」という無限の多様性。

そのようなものはない。

ダイバーシティとは多様ではないものを多様化することで己の知覚による環世界を真理として正当化してしまうこと、言わば透明な模擬刀ぶん回す剣劇の立ち回りをリアルな殺し合いだと錯覚してしまうこと、それと等価なのだ。

切る者と切られる者とが時空を分かち合うのだ。

名前を与え、与えられながら。

歴史的時空ならば生死を賭けた娯楽的な有効性を持ったその立ち回りも、完全無-完全有においては、何かが何かを斬りおおせる余興など、かつて一度もなかったのだ。

いや、これからもないだろう。

なぜならば、透明な刀で斬りおおせるものなど、時空無き世界においては、何もありはしないのだから。

すべての可能性があるということは、何もないことと同義なのである、という言明も浅い。

可能性そのものが、もはや完全に失脚してしまっているのだから。

しかし、ことばによって語り得ぬものを語るには、近似値としての表現に依拠するより外はない。

ことばではこういってもよいだろう。

世界はあらかじめ何もかもあるのだ。

と。

完全有としての世界とはそのようなものであった。

しかし、世界とは有限でも幅ぼある無限でもないのだ。

と、わたくしがここで言っているのだ。

全くもって価値のないものとして語っているわけではない。

最低でも自分自身はいくらかの意義があってことばを紡いでいる。

科学的思考華やかなる日常世界においては、宇宙論があり、いくつもの仮説があり、いくつものデータがある。

しかし。

たとえば、宇宙が膨張するならばその外側がなければならないだろう、という言い掛かりは無益だろうか。

膨張する有が無を有化することはあり得ないのだ、という意見は無効だろうか。

そんなことはないはずだ。

論理的帰結に対する信憑の多寡の違いだけで世界は決まらない。

それはともかくとして、たとえば、宇宙が膨張するためには、あらかじめ無という名を持つ有という場の先回りが必要条件ではないだろうか、ということをここで強く言いたい。

だがしかし、かつて世界が何ものかを必要としたことがあるだろうか。

世界はそれだけで、――あらかじめすでに――約束であったのではないか。

名付けるものも名付けられるものもない世界における、全く汚れ無き約束であったはずだ。

何ものとも取り交わされざる約束。

それが「原約」である。

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