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『完全無――超越タナトフォビア』第百七章

この二十一世紀における開闢問題は、量子力学的解釈を除けば、無から宇宙が誕生する謂われはない、と科学的には思料されている。
 
無から有が生まれたのだとしたら、有が生成するための場が元より必要不可欠のはずなのだが、そのあたりはまだまだ未知の領野であるらしい。
 
そして、いや、哲学的に思いを馳せるならば、何ものかが無から有に転じるためには、百%の濃度の無に零%の濃度の有が浸食していかなければならないはずだ、という想起にぶつかるはずなのだ。
 
果たして、無にはそのような有にとって都合のよいだけの機能などあるのだろうか。

そのような出来合いの、つまりお膳立てとしての機能、そのような機能を発揮することがあらかじめ規定されていた場など、無いのではないか、とわたくしはまずもって考えたわけである。
 
つまり、宇宙は無からは発生しない。
 
量子論における量子的ゆらぎというものが人間にとって正しかろうとそうでなかろうが、無から有が生まれるということは、無い、ということだけは何度も強調しておきたい。
 
ちなみに、物理学的な無とは、完全無のことではなくてニセモノの無である。
 
宇宙、いや世界は始まりを持つことはない。
 
ということは、始まりのない宇宙が成り立つためには、まず宇宙そのものが無でなければならないではないか。
 
この作品を始めるに当たって幅のある概念は成立しない、と私は踏んだ。
 
よって宇宙には終わりがない、とも強弁できるはずだ、と踏んだことになる。
 
始まりはないが終わりだけはある宇宙などというものは成り立たないのではないだろうか。
 
始まりがないものは、必ず無である必要性に包まれるからである。
 
宇宙がいくつあろうとかまわないが、ともかく宇宙には始まりもなく終わりもなく、完全無である。
 
ちなみに、完全無と対をなすことのない、完全無とまったく同等だと推量された完全有という概念、それは完全無のあだ名みたいなものであり、二義的なものであることが、この作品の成長とともに明らかになった。

完全無である、ということは完全有ということなのである、という言い回しは厳密性を欠いた定義であった、ということ。
 
気の利かない台詞で答えるならば、完全無と完全有を同じものとしてその文字を眺めやることでしか埒は明かない、と思いなしていたことも、誤認だった、ということなのだ。


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