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作品五首・掌編「ワウ・フラッター」

「もうそろそろ、自分のものはしっかり整理して頂戴」
母がそう言うから僕は重い腰を上げて、この実家に戻ってきた。長居するほどに小言をもらってしまうから、きょうは15時までしか居られないんだとあらかじめ念を押す。別に用事なんか、ないくせに。

高校を卒業してすぐにこの家を出たから、かれこれもう十年になる。あの頃の僕の荷物はダンボール箱ひと箱に収まるものだった。それは生活に必要な最低限のものだけだったから、さしあたって生活に必要のないものは実家に置き去りになることになった。

ぱっと見て選別できるものなら、まだいいのだ。母を悩ませていたのは大量に眠っているカセットテープのことだった。もちろん僕だって全てを持って帰るつもりなんてなくて、めぼしいものだけ救ったら「あとは捨てといて」で済ませるつもりだった。
「あなたの家は広いんでしょう。遠慮せずに全部持っていって頂戴」
僕の心を見透かすように、また母が言う。いや、ラジカセなんて持っていないし、これだけのために買うつもりもないのだ。何が何でもここで選り分けて帰りたい。昔のワープロで印字されたインデックスはもうケースと癒着してしまっていて、メリメリと音を立てて剥がれる。歌詞カードなんかも出てきた。一生懸命に手で入力したんだったっけな。

そのうちに手書きのインデックスのカセットテープが出てきた。僕の文字ではない。ああ、これは美術部の恵美先輩にもらったものだ。名は体を表すじゃないけど、ころころ丸っこい字を書く人だった。中身は当時流行った曲が入っているようで、まあそれはどうでも良くて、どちらかと言うと先輩と物の貸し借りをするプロセスを楽しんでいるようなところが、あの頃はあった。

僕はそのカセットテープを再生してみる気になった。隠しトラックってわかるだろうか。あらかじめの曲目にない曲を最後に忍ばせる手法だ。これが僕たちの間で当時流行った。カセットテープのインデックスには書かない曲を最後に追加したり、ときには自分の声を吹き込んだりする。先輩の生の声はこのカセットテープの中にあった気もするし、なかった気もする。先輩と僕がその後付き合ったという事実はないから、甘い愛の言葉であるわけはないけど「テスト勉強頑張って」とか当たり障りのないメッセージをくれたような、気もする。

再生ボタンを押す。果たしてそのカセットテープは回り始めた。音がすごく小さく、それでいてみょんみょんと波を打ったように聴こえてくる。慌てて止めてカセットテープを取り出す。そして昔やったように穴の部分に鉛筆を挿して回してみる。インデックスがケースと癒着したようにテープもまた互いに癒着したようで、強い抵抗を感じた。聴かないほうが、いいよ。そう言われたような気がした。

僕は母に「全部捨ててくれ」と言った。「なんだそれなら電話で一言で済んだじゃない」そうじゃない。捨てたほうがいいものだということに気付くには、ここに来る必要があったのだ。僕は実家を後にした。15時にはまだ少し時間があった。


いずれもうたの日2023年3月より

1首目 題『最』
2首目 題『上澄み』
3首目 題『ラクダ』
4首目 題『鬱』
5首目 題『鱈』