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行き交う人波の中

雨を気にしながら行き交う人波の中をバイト先へと向かっていた。街に人が多ければ店に来る客も多くなる(もちろん必ずしもそうだとは限らないが)。家を出たとき雨に打たれながら「きっと今日は客は少ないだろう」と考えていた期待は、駅を出たときには打ち砕かれていた。

道を覆い尽くす黒服を潜り抜け、綺麗なお姉さんを眺めながら、僕は今の生活の限界を感じていた。大学とバイトの両立、人間関係の気苦労、いつになっても貯まらない貯金。いつもバイト前に寄る煙草屋で、今日は煙草が買えなかった。

いつもなら、「アメスピのメンソールください」「なんミリ?」「9ミリで」という決まりきった会話が交わされる。僕にとってはそれは1つの趣向というか、ほんの少しの楽しみだったのだが、煙草屋のおばあちゃんからしたら日に何人もくる客のうちの一人にしか過ぎないのだろうな、なんて考えながら。

腰の曲がったおばあちゃんは白髪を後ろに1つに結び、眼鏡をかけていかにも面倒臭そうに僕のノックに顔をあげる。上の会話が終われば、すぐ下を向いて新聞かなにかを読んでいる。もしくは、何もしていないのかもしれない。

祇園という歴史のある街でおばあちゃんは煙草屋の小さな窓から何を見てきたのだろう。水商売の栄枯盛衰、新人の黒服、老いていくキャスト。必要以上の会話を交わさないのは、老人特有の厭世感か、それとも去っていく人を見送ることへの疲れからなのか。

所詮、想像だ。僕はあのおばあちゃんのことを何も知らない。これであの煙草屋が実はこないだできました、なんてオチも、あり得なくはない。

とりあえず僕が望むのは、あのおばあちゃんが僕の煙草の銘柄を覚えてくれたらな、ってことだ。

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