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今の環世界に家族はいるのか。

朝から母親と電話で喧嘩し、感情が抑えきれず思わず電話を切った。
(この対応自体は大人気ないけど、今だけは仕方ないと自分を宥めています)

母親は「家族なんやし、思った事は言うたらええやん。家族やったら、横から口を挟むこともあるし。解決せんでも、聞いて気付くこともある。」という一文もLINEで送ってきた。

僕は素直にこの言葉に賛同できないからすごく違和感が残る。
その言葉のベースにある母親の性格、家族の捉え方の違いなどが要因だけど、どうしてこうもこちらの伝えている思いに聞く耳を持たないのだろうかと不思議でたまらない。

いつも何かと「理屈っぽい」やら「あんたには他の兄弟以上に言葉を選ばなくちゃいけない」だとか、嫌味っぽく言われるのも、すごく嫌気がさす。

兄弟といえども人と比べてみたり、相手の性格を否定するようなことを言ってみたり、そういう言葉が自分自身への信頼を削っているとは考えないのだろうか。感情的な人間だからそう言うことを言ってしまうのだろう。

事実、僕も感情的になって口論をするからそこは理解できる。

だからこそ、自分が抱える違和感の正体をずっとぐるぐると思考している。
何が自分と同じで、でも、何が根本的に違うんだろうと。

イライラした気持ちを抑えるために紙に思いを吐き出し、
図解で少し関係性や因果関係を表してみたりして。

これまで(もちろんこれからも)、家族は大切だと思っている。
けど、同時にすごく好きかと言われるとよくわからない。
本音は言えない、両親にも兄弟にも。家では性格が少し変わっておとなしい。だから何を考えているかよくわからないと喧嘩になるたび言い捨てられる。
けど一番兄弟の中では気が効いて、帰省しても親の手伝いをするのは自分。
むしろ長女は朝もグータラしているのに、ある時僕と母親との意思疎通がうまくいかず、帰省のタイミングで無駄に布団を追加で用意させてしまったことには横から出てき、長女だからと言わんばかりにお説教。そんなあなたは自分から気がついて親を手伝ったり、労ったり、温かい言葉をかけたりしているのか。
けれど家族の中では姉と兄は楽観的で楽しくて、ひょうきんで、両親も同じような性格だから、日常のストレスはなく、集うことができる。

なんだか、僕だけ少し違うような気がしているし、そう思われている気もする。
大学まで良いとこ出てて、学生時代も成績が良いことを褒められつつ案に別扱いされたり。「俺らとは違うもんね」と。そもそも良いとこって言ったって上には上がいりゃ、普段接するコミュニティも教養も、趣味嗜好も何もかも違うのに、わかったようなふうに扱われて、それでいて、「昔からこうだったよね」と。

そんなこんなで、僕は家族とのこれまでの関係性や現状の見えない空気感をできる限り想像して整理してみたりした結果、新しい気付きがあった。
これまでの生き様をここにあらためて提示されたようで少し直視し難いけれど、家族を理由・忖度抜きに愛し尽くせられたらよかったのだけれど、けれども確からしい感覚があった。

「家族を気遣うからこそ感情を吐露できないバリアを作っていた」と言う事実。

末っ子の自分は昔から家族に何かと気を遣って生きてきた。
小さい頃兄姉に揶揄われて悔しい思いをしたことも、
勇気を振り絞ってはむかったけど力では勝てなかった兄の存在も、
姉が思春期で荒れるいえの中でただただ無力感と家族それぞれへの同情そして慈悲・同時に怒りの感情も、
いじめにあった苦しさと、また和に入れてもらえるようになった時の自分の心の安堵感も、
僕が生まれた時には病で声を発せられず病院生活を送っていた祖母に学校帰り顔を見せ、優しい笑顔と起きた出来事を届けた時に帰ってくる祖母の笑顔に嬉しくなって、そのとき気付いた心が通うことの大切さも、
いろんなものが記憶として残っていて、全ては「家族に気を遣う」に紐づいた経験だったんだ。

兄弟の中では誰よりも細部に気付き、やさしくて、穏やからしい自分だからこそ、家族を悲しませたくはないし、人一倍幸せになってほしいと願っている。色々これからは旅行に連れてってあげたいし、誕生日には田舎では手にしないようなものを届けたいとも。けれど、同時に、ずっと染み付いた「家族に気を遣う」感覚の背後に「嫌われてもいいから嫌だと思ったことは家族には伝える」といった素直さにもつながる感覚が隠れて存在することを思い知った。

どうしても、自然と、本音を伝えない、いやだと思っていることとか、少し気を遣ってしまうような内容はグッと堪えてた。兄弟だから・家族だから。
そして「恥」への感覚が強く育ったため、面白いふざけた姿も見せられない。恥ずかしいし、「遠慮している」から。

そして思いを伝えるときはどうしても感情を全面にできないから、
賢い自分を演じていなくちゃいけないから、そうでないと保てないから、
だからどうしても理屈ぽくなってしまう。

家族を大切にしたい故に、やさしくありたいが故に、迷惑をかけちゃいけないと思うが故に、逆に家族というものに素直になれていないんだと。

家族のことを深くそこまで思わなければ、
きっともっと何も考えず感情論で言い合い、時には喧嘩してもすぐ仲直りして後腐れなく日々を過ごす、そんな感じだったのかもしれない。
兄や姉と両親の関係のように。

家族の元を離れてから10年以上も経つのだから、自分の「社会性」がより自分の今の価値観を作っていて、家族は知らないことも多いだろう。

そうして家族を普段は少しおいてけぼりにした生活をしているから、
家族と接する時、普段の環世界での自分をそのまま家族と言う環世界にも持ち込んでしまっているんだと思う。

そうだとした場合、
「家族なんだから」は僕には通用しなくなっている。
「家族と言っても他人」だなんて、思うけど言いづらい。
また、あんたはどうこうと言って愛想をつかされるんだろう。

だったら僕から諦めた上で適切な距離を保ち続けたらいいのか?
それともやっぱり家族は特別だから、昔の自分に戻ったらいいのか?それでも気を遣い続けることには変わりないんだけど。


このnoteはまとなりなく書き連ねてしまったけれど、
思いを吐露したい気分でキーボードを打ってみた。
なるだけ綺麗な文章を避けてでも、思いにおいてかれないように指を動かす感じで、おかげで少しどうでもいいやって感じで一旦スッキリした。


家族、家族、家族。
理屈なきに語れる日が来るといいな、とだけは思う、昼下がり。




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