じぶんのなまえについて考えてみたアレコレと長渕剛と『花の慶次』界隈について
わたしの名前は剛士で、よく「剛」とか「たけし」とか間違えられることもあるのですが、「つよし」という名前の人についてはなんとなく親近感を持っています。
人の名前はもれなく親が想いをもってつけているんですよね。
最近は、この視点をもっていろいろな人の名前を眺めています。
みんないい名前だなーと。
むかし、保育園の卒業アルバムだかに我が母の和子によるコメントがあったのですが、
「剛士という名前は、金剛力士像からつけました。金剛力士のように強くなってほしいと思います」
というようなものでした。
ほーん。あの和子もそんなことを考えていたのだな。
月日はたち、ぼんやり35歳になったわたしが夜寝る前に鏡をながめてみると、
まーお世辞にも金剛力士っぽくはなく、どちらかというとモロに文士路線なんですよね。
スポーツもやってないし、筋トレもしてないし、まー金剛力士界隈とはかけ離れた精神世界を過ごしています。
和子の期待通りの人間にはなれていないな。
このように親の想いが息子にどこまで届くのかはわかりませんが、自分につけられた名前の意味を考えるといろいろと前向きになってくる気がします。
みなさんも、自分の名前の由来を知らない方は、年末の休みにでも里帰りしてみて親御さんに聞いてみてください。
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そうそう冒頭で、「つよし」には親近感をもっているという話をしましたね。
たとえば長渕剛さん。
長渕さんというと、どちらかというと世間一般で、リアル北斗の拳界隈というか武闘派に所属している方々に敬愛されていたりしている気がします。
が、
わたしは、長渕さんは男らしいのではなくて、徹底的に弱い人間で、足搔き続けてきたからこそ、リア充にけなされながらも世の人に愛されてきたのではないかなと思っています。
強い人っていうのは、男にとってどこか脅威なんですよね。
長渕さんは弱くて、とかく生きづらいこの世で足掻き続けて歌っているからこそ、同じように大人になって図体はでかくなっても本音は自分の小ささを嘆いている人が共感しているのかと考えています。
長渕さんをみると、弱いからこそ若いときに傾いていたのでしょう。
三島由紀夫氏のエピソードにつながりますが、己が徹底的に弱いからこそ、意識を改革するために身体を鍛えてまずムキムキになったんだろうなーと思います。
三島氏も肉体的には病弱の青びょうたんと馬鹿にされていたものの、ボディービルをやって肉を食べて身体を大きくして自分の弱さに打ち克とうと努力し続けた人です。
若いころの長渕さんは、ドラマなどキャラ設定もありますが、相手を威圧する険しくときに寂しそうな表情をしています。
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わたしの愛読書の『花の慶次-雲のかなたに-』で、伊達藩かどこかの人相が矢鱈に悪い用心棒(岩茎鬼十郎)が登場したときに、前田慶次がこういうわけです。
「虎はなにゆえ強いと思う?もともと強いからよ」
本当に強いものは泰然として、足搔いていないもんだ。
お前は弱いからこそ強くなろうとして、面も凶相なのだよ。
慶次はそんなことを言いたかったのでしょう。
長渕さんの若い頃と似ていますね。
このカバー写真はウェブ上からコピペしたわけなのですが、まだ親である真田昌幸の下、くすぶっているときの真田幸村の顔です。
原哲夫氏は、おそらく「何か」を求めて道を彷徨っていた長渕さんを模して描いたのでしょうね。
この作品のなかで前田慶次はデフォルト設定で神格化されており、行いはいつも清々しく描かれているのですが、対比の存在として岩茎鬼十郎がいるのだなと。
岩茎鬼十郎もきっと訳アリで話してみればいいやつなのかもしれません。
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が、慶次は慶次で、前田利久がなくなったときから、特に個の孤独の影が常につきまとっていて、その影のニオイと道々の者をふくめた分け隔てない愛によって加賀藩下忍の捨丸や七霧の岩兵衛のような仲間を得たのかなと。
あれ、俺はなんの話をしていたのか。
あ、そうそう、
仕事中のBGMとして、『とんぼ』がずっと流れているのですが、いろいろ気が散ってまったく仕事が進まないんですよね。
世の中の弱いみなさん、これからも戦い続けて生きていきましょう。
ではでは。
年末年始はまた花の慶次を読みようと思います。
『花の慶次-雲のかなたに-』
読んでくれてありがとうございます。サポートくださるお気持ちで、たのしい経験をしてたのしい文章を書きますよ。