見出し画像

表現のテンプレ化

僕は仕事柄、ほぼ一日パソコンを使用する。
そのためかネット記事を見る機会がしばしばある。

色々なサイトがあるが、基本的にはトップに各記事の見出しを並べている。
僕が気になっているのは、表現のテンプレ化が進んだ結果、それが適切に使用されていないことが多いということだ。

例えば、「女優〇〇に下された評価」「〇〇に視聴者が驚愕」「絶対に〇〇できる方法」などが一例だ。
余談だが、見出しの語尾について思うのは、「~とは」という書き方から体言止めにトレンドが移った気がしている。
現代の合理主義による影響だろうか。

勿論、ライターの最優先事項は人に読まれることだろう。
「1番人気の職業は〇〇」より「1番人気の職業とは」と書いたほうが人の興味を惹きやすいと思う。
しかしながら、ほんの一部の意見があたかも全体の意見であるかのような表現はいけない。
また、そもそもどうやって調べたの?過度な表現では?と首をかしげてしまうものも散見される。

このようになった主な原因は、書き手が増えたことだろう。
SNSの普及で発信者が増加したことでライターは商売敵が増加した。
記事が増えれば、必然的に1つの記事に対して読み手が割ける時間も減少する。
そうなると、きっちりと推敲を重ねた文章よりも、短時間で大量に作文をして小ヒットを積み上げるようなやり方になる。
また、即時性が求められる場合もあるだろう。
結果として、「表現の適切さ」をおざなりにして、「早く書き上げること」「クリックされること」に優先事項が偏ってしまったと考えている。

これは今のYoutubeにも言えることで、無邪気に動画がアップされていた黎明期から比べて、同じようなサムネイルが並び、構成も同じようなものが多い。
収益を上げることを目的とした投稿者が増えたことが原因だ。
効率よく利益を出すためには無駄を省く必要がある。
つまり、動画作成のテンプレという枠組みを1つ作成し、テーマを入れ替えて色々な動画を作成するやり方が合理的だ。

過剰な表現に慣れてしまうと、いざというときに重要性が正しく理解できないかもしれない。
画一的な表現に慣れてしまうと、表現の幅を狭めてしまうのではないだろうか。

そんなことは全て読み手の責任だ、と言うには少々酷な状況ではないだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?